6章 朝鮮の人物-25 近世9
チャンロクス張緑水とヨンサングン燕山君
 
 
 
 
最近では夜寝る前にベッドに入ってもブログ書きをして居ます。
人物紹介なので誰をどう言う風に書こうか?と毎日迷いながら書いて居て、色んな資料チェックが欠かせません。
何とかヒントを得ようと必死です(笑)。
 
「誰を書こうか?」と迷って居ると家内が「悪女でも書いてみたら?」とタイムリーな助言を。
丁度燕山君ヨンサングン(生年1476〜1506)の代に差し掛かり、前にFacebookで頂いたリクエストにもチャンロクスが入って居たのでピッタシカンカンでした。
 
と言う事で悪女チャンロクス張緑水をメインに書きますが、彼女を思い起こすと真っ先に浮かぶのはドラマ「逆賊ホンギルドン」のイハヌィの名演技です。
 
 
彼女の演じたチャンロクスは単純な悪女では無く、悪女にならざるを得なかった哀しみや元々好きだったホンギルドンと敵対する立場になってしまった苦しみなど、ステレオタイプでは無い人物像が描かれており、ドラマに深みを与えて居ました。
彼女の知的な姿がとても絵になって居て、もう一度観たい位魅力的でした。
 
彼女は朝鮮3大悪女と呼ばれて居ます。
ちなみに残り2人はチョンラ(ナ)ンジョン鄭蘭貞チャンフィビン張禧嬪(チャンオクチョン張玉貞)です。
 
 
所で、何故3大悪女と呼ぶのでしょう。
3大悪党、3大悪人は居ないのに。
 
ここには男の運命を狂わせたと言う意味で、女性を見せしめにしようとする男性目線の差別意識を感じざるを得ません。
 
実際には男の方が悪物は多い筈です。
例えばザーッと考えても誰でしょう?
リソンゲハンミョンフェウォンギュンチョンドゥファン…?
そもそも誰をもって悪人と呼ぶか自体難しいです(笑)。
ヒトラーリソンゲに限らず、逮捕されても謝罪すらしない先のチョンドゥファンの様に成功した悪人は英雄になってしまうし(笑)。
と、袋小路に入ってしまうのでやめにしますが、色々と考えさせられます。
 
 
この様に何も考えず世界何大ナントカみたいに言って居るのが一番楽ですね(笑)。
 
と言う事で本論に入りましょう。チャンロクスはご存知の様に我が国1番の暴君ヨンサングン燕山君の愛妓です。
ヨンサングンについてはコチラに書きました。
 
↓↓記事はコチラを参照↓↓↓
 
まずはオマケで、彼について書き足りない部分を足しましょう。
 
燕山君コト本名リリュン李㦕は1476年11月23日景福宮交泰殿で成宗と王妃ユン氏の間の嫡長子として生まれて居ます。
端宗以来 久しぶりに出てきた嫡長子出身の王です。
歴代朝鮮王朝の王たちの中で正統性が高い王様はそれほど多く有りませんが、燕山君は正統性がしっかりした国王の一人と呼ぶに値する出自です。
 
 
国王が最初に得た子、それも息子である上、後宮から生まれた王子では無く、正室の夫人から生まれた王子だったからです。
特に燕山君は宮廷で生まれた最初の王位継承者でも有りますが、それ故に臣下らが「宮廷で王位継承者が生まれたのは初めて」だと成宗にお祝いの言葉を送った記録が有る程です。
 
燕山君は在位の序中盤だけ見れば、底堅く政局を運営していた、聖君にもなり得た国王だったと言えます。
 
全国にアメンオサ潜行御史を派遣し、文科別試を実施して賜暇読書制(官吏に勉学の為に休暇を与える制度)を実施して文臣に学問を奨励しました。
 
 
また貧困層を救済した記録があり、臣下が憲天弘道經文緯武大王と言う珍しい尊号を上げた所、燕山君は自分には勿体ないと退けた事も有りました。
 
成宗末期の緩みを正すべく驚く程に政治に意欲的でしたし、3人の太王妃を手厚くもてなし、自分が怠惰に陥る事を警戒する姿をも見せて王として十分認められて居ました。
 
勿論、その頃から暴君の芽は有り、 王の務めで有るキョンヨン經筵(学習講義)を嫌ったと言います。
とは言え、世宗正祖以外の王でキョンヨン經筵を好む王は稀で、李成桂コト太祖も歳を理由にしばし学習をサボったと言います。
 
 
また、燕山君はその頃から狩りに行っては地方の美女を選び部屋に篭(こも)り、好き勝手に贅沢三昧して居たと言いますが、 それ位なら何処かの人民の指導者もして居る行為で(笑)、隠してしまえる行動でした。
 
その間4年、この頃の話しは平凡なので描かれませんが、ドラマ「王と私」に描かれて居るそうです。
 
そんな彼が常軌を逸してしまうのはやはりムオサファ戊午士禍からです。
 
↓↓士禍の記事はコチラ↓↓↓

 

ドラマ「逆賊ホンギルドン」に詳しいですが、父成宗の頃に強くなった臣権を制御し、世祖の頃の「王による専制政治」を企んだ頃からおかしくなったと言えるでしょう。

 

自分の生母が廃妃尹氏であることを知り、母を王后に追尊しようとするも反対する士林たちと衝突、「戊午士禍」「甲子士禍」を起こし士林派(新進儒林:中小地主)を弾圧します。

 

士林派のみならず彼らと敵対する勲旧派(功臣:大地主)をも制圧して独断政治に入りました。

 

司諫院、司憲部など王権牽制機関を大幅に縮小、削減。全国から2000人もの妓生キーセンを集め、儒生養成の大事な機関の成均館を妓生キーセン養成場やナイトクラブにするなど横暴を尽くします。

 

 

全国から美女を集めて手籠にし、数々の臣下の両班婦女をも強奪姦淫。

狩り(狩猟)に没頭し民の土地を強制没収、貢納品も不当に増やし民衆の怨声を買います。

 

この他奢侈や放蕩が祟り国庫は蕩尽、朝鮮王朝は未だかつて無い国庫の窮乏を来たしました。

 

遂に1506年心腹であったパクウォンジョンユジャグァンらのクーデターが発生(中宗反正)、異腹兄弟の中宗を擁立した彼らにより廃位。

江華島に流刑され2か月後死亡しました。

まさかの精神的ショックが大きかったとは言え、早過ぎる死は毒殺とも言われています。

正にローマの暴君ネロと見間違うかの如き暴君でした。

 

彼を狂気に追い込んだ理由のひとつがチャンロクス張緑水です。
 
彼女の父は県令を務めたチャンハンピル張漢弼、母は妾で家奴婢でした。
チャンノクスの母親が奴婢だったので「一賤則賤の原則」に従ってチャンロクスも燕山君によって免賎されるまで内需司の奴婢、 賎民の身分でした。
 
 
娘が居ましたが王位継承権がない娘だったので廃世子リファンの様に殺される事は有りませんでした。
 
彼女は睿宗の息子齊安大君の奴婢だったと有ります。
家が貧乏だったので体を売って生活し婚姻も何度かしました。
 
そうする内に齊安大君の家奴婢の妻になって息子を生み、歌と踊りを学んで娼妓(キーセン)となりました。
従って燕山君より年上であったと推測されます。
 
一般的なイメージとは異なり外見は普通で、超美人では無かったそうです。
とは言え物凄い童顔で、30代の頃でも15〜16歳の少女に見えたと言います。
 
 
踊りと歌の実力が特出して優れ、燕山君が宮廷に呼び出した所、目に止まった様です。
 
燕山君が欲しがる物を良く気付いて機嫌を合わせる能力が有り、 王を嘲笑する事まるで子供の様に、 王に怒る事奴隷の様にしたと記録に有ります。
 
1503年(燕山君9年)12月品階が従3品スクヨン淑容に上がりました。
燕山君は翌年3月に綿布500匹を 彼女の家に下賜し、彼女の家の火災が心配だという理由で周辺の家々を壊し、彼女の家を新しく建ててやる程寵愛しました。
 
燕山君はこの他にも「真心で敬う心が有る」と称え奴婢13人を与え、米と綿布、胡椒などの物品を授けました。
燕山君が外出する時彼女は横で平然として居て、いつも夫婦と同じだったと「燕山君日記」にも有ります。
 
 
チャンロクスの義理の兄金孝孫は、咸鏡道伝香別監になり、家中が大きく栄華を享受しました。
 
こうなると彼女に媚びへつらう者も多く、王族でも彼女に賄賂を渡しました。
 
燕山君の手の掛かった宮女2人をチャンロクスが嫉妬し無辜の罪で訴えて殺しましたが、朝廷では誰も反対意見を出せず、彼女らは四肢を切断され悲惨な最後を迎えました。
 
同様に妓生オクチファ玉池花も、チャンロクスのスカートを一度間違って踏んだがため斬首されました。
 
中宗反正(クーデター)が起こる10日前、燕山君が何かを予感して涙を流したと記録に有りますが、その時唯一彼に共感して涙を流した女性がチャンロクスでした。
 
 
結局1506年(中宗1)中宗反正でチャンロクスは軍器寺で斬首刑に処されました。
この時怒った群衆が、瓦と石を投げながら「一国の膏血がここに充てられた」と叫びました。
 
彼らが投げた石が山を成しましたが、その後死体処理がどうなったか知る事が出来なかったと有ります。
 
この様にドラマ「逆賊ホンギルドン」とは大きく違い、民衆の怒りも然もありなんと言った感が有りますが、いつの世も傲慢な者の末路は哀れな物だと再三実感します。
 
彼ら暴君を倒した中宗ですが、その後も勲旧派士林派の争いが続き、混乱した政局が続く事となります。
 
<参考文献>
한국민족문화대백과사전
나무위키 
朝鮮王朝実録
ドラマでわかる朝鮮王朝の王たち

 

#韓国ドラマ #韓国時代劇ドラマ #韓国映画

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