ワンポイントコラム
<韓国朝鮮歴史のトリビア>
125.亀甲船コブクソン거북선
 
 
 
今回は直球勝負です(笑)。
我が国最大の自慢コブクソン亀甲船について書きます。
 
コブクソンは壬辰倭乱当時海戦で活躍したカメの形の戦闘船で、正式名称はクィソン亀船です。
コブクソン亀甲船は朝鮮水軍の主力戦艦であるパンオクソン板屋船の上体部分を改良して、カバーを覆った構造です。
 
 
板屋船は底が平らな船体の上に、それよりも幅の広い甲板を2層構造にした戦船です。
1階甲板には朝鮮式の櫓を備えてキョクグン格軍(漕ぎ手)が櫓を漕ぎ、
2階には司令部が位置する将台を設置して、甲板の周囲には盾(たて)を巻き、各種の大砲を装着しました。
 
コブクソン亀甲船は、まさにこの板屋船の上部分を改良して、覆いを作った構造でした。
 
朝鮮戦船は、主に海賊船との戦いの過程で成長しました。
 
高麗時代から女真海賊や倭寇との戦いで主に使用された戦術は、船をぶつけ海賊船を破る方法や帆布を使用して敵船を燃やす方法でした。
 
 
一方海賊たちは、相手の船に接近して船に飛び込んで戦う肉薄戦が主でした。
これを防ぐ為にも敵船に飛び込ませ無い事が重要でした。
その様な考え方から出て来たのが、
所謂(いわゆる)「亀甲船」だったのです。
 
「太宗実録」によると、1413年(太宗13)に王がリムジン臨津ナル(渡し場)で亀甲船と倭船が互いに戦う様子を眺めたとする記録が有ります。
 
 
また1415年国防問題で
「亀甲船での戦法は多くの敵と衝突しても被害が無いので、まさに決戦用の計略です。
堅牢に作って戰勝の道具として備えましょう」
という上訴が提示された事を見ても、亀甲船は既に朝鮮王朝初期に存在したと言えます。
 
しかし太宗時の亀甲船
その後積極的に活用されなかった様で、
これが壬辰倭乱の時に李舜臣によって再び登場する事になったと思われます。
 
 
亀甲船と関連して壬辰倭乱のさ中、
リドクホン李德弘が制作を提案した亀甲船が注目されます。
彼は倭敵の脅威が鳥銃(火縄銃)にあると指摘しつつ、それを防ぐ方法は
外敵が陸から攻撃出来ぬ様、
「沈水眞木箭」と言う筏(いかだ)を製作する事と亀甲船の製作で有るとしました。
 
彼の考える亀甲船は次の様でした。
 
船上部分に槍剣を取り付け、頭部に弩(弓)を隠して、胴体の部分には小さな部屋を作り射手がその中に入る事が出来る様にする。
横は射穴に通じて、
下には船の中心部に通した後、中央に銃筒と大きな斧を乗せる。
そして体当たりしてぶち壊したり、砲を撃ち当てたり、銃器で撃ったりすれば、敵がたとえ多く集まって来ても、どうにも出来ない筈である。
 
李舜臣亀甲船とかなり類似した内容であることを知る事が出来ます。
 
 
亀甲船は優れた独創的な船ですが、
ある日突然作られたのでは無く、
以前からの造船技術の土台の上に作られたと見るべきです。
後期新羅時代のチャンボゴ張保皐の海上活動や高麗王朝の活発な貿易活動、高麗時期の船造りの伝統が朝鮮王朝に受け継がれて板屋船と亀甲船を出現させたと言えます。
 
壬辰倭乱当時の亀甲船の構造的特徴を知る事が出来る記録に「宣祖修正実録」の1592年(宣祖25)5月の記事を挙げる事が出来ます。
 
<リスンンシン>
 
「リスンシンは戦闘装備を大幅に整備し亀甲船を作った。
これは船の上に板木を覆ってカメの甲羅の様にし、その上に我軍がやっと通行出来る程の十字で狭い道を作り、残りはすべて剣・槍の様な物を並んで挿した。
そして前には龍の頭を作って砲穴に活用し、後にはカメの尾を作って尾の下の銃穴を設置した。
左右にも銃穴がそれぞれ六個あり、軍はすべて、その後ろに隠れる様にした。
四方に砲を撃つ事が出来る様にし、前後左右に移動する事が飛ぶが如く速かった。
戦う時も藁や草で屋根が見えない様にし、敵が跳び乗れば剣に突かれ、包囲されると火銃を一斉に放った。
そして、敵船の中を横行しても味方はダメージを負わないまま、風吹く様に敵船を撃破したので、いつも勝利した。 」
 
ここで確認出来る事実は
①既存の板屋船の上に板木を敷いてカメの甲羅の様に作った
②剣と槍を挿して戦う時は藁や草で覆い隠した
③龍の頭を作りその口を大砲の穴に活用した
④カメの尾を作りその下に銃穴を作った
⑤船の左右に銃穴を六個ずつ設置した
⑥四面に砲を撃つ事が出来る様にした
⑦前後左右に移動する事が早かった
 
 
という点などです。
味方の兵力を保護し、敵の接近を基本的に遮断しながら敵陣を打つ突撃船としての亀甲船の性格を確認出来ます。
 
亀甲船の規模については、サイズが板屋船に値すると言う言及から亀甲船のサイズを推測する事が出来ますが、現在では板屋船の正確な規模も詳しく知る事が出来ません。
ただしギョクグン(格軍:漕ぎ手)と射手が合わせて125人乗船したと言う記録は確認する事が出来ます。
 
現存する記録の中で亀甲の規模と特徴について最も詳しく記録した文献は、1795年(正祖19)正祖によって編纂された「李忠武公全書」です。
 
 
将軍の死後、王朝に忠誠を尽くした彼を忠臣に推戴する動きは正祖期に絶頂に達しました。
「李忠武公全書」の編纂は、そのような事業の一環でした。
この書籍には、将軍の日記・狀啓などと共に
彼を礼賛する人々の詩文、碑銘などが収録されました。
この本巻首の図説部分に壬辰倭乱当時の亀甲船の構造を推定する事が出来る2枚の亀甲船図とその説明文が記載されて居ます。
 
2つの亀甲船は統制営亀甲船と全羅左水営の亀甲船ですが、この内統制営にあった亀甲船壬辰倭乱当時の亀甲船に由来した物であり、ただ寸法に加減があると書きました。
この書籍に収録された統制営亀甲船の構造は、かいつまんで次の通りです。
 
 
❶底板を10枚貼り付け、その長さは64尺8寸。頭の方の幅は12尺、腰の方の幅は14尺5寸、尾側の幅は10尺6寸。
❷左右の舷板(船の外板)はそれぞれ7枚。高さは7尺5寸。
板の厚さは全て4寸。
❸船首には亀の頭を設置。長さは4尺3寸、広さは3尺。
その中で硫黄焰硝を炊き、開いた口から煙を放って敵を混迷させる。
❹左右の櫓は其々10個。
 
などなど、省略しますが全部で16項目に渡って詳細に記して居て、凡その姿を知る事が出来ます。
 
亀甲船の具体的な構造と機能については、まだ多くの議論が有ります。
このような問題が発生する最大の原因は勿論、亀甲船の実物を確認する事が出来ないという点に有ります。
 
 
原型を見つける作業は壬辰倭乱当時とその後の亀甲船の記録を基に辿って行くしか有りませんが、その資料が断片的で解釈も難しい上に、壬辰倭乱当時の亀甲船の資料も無いという点が隘路です。
 
コブクソン亀甲船に関する議論を整理すると
1番目の問題は、亀甲船がいつ誰によって創始されたかという事です。
太宗時すでに亀甲船という名前が付いた船が有るので、これと壬辰倭乱の時の亀甲船がどの様な関係に有ったか、両者は構造面で同じ船なのかなどを明らかにする事が亀甲船の創始問題で重要なカギとなります。
おそらく壬辰倭乱の時の亀甲船は将軍と彼の部下の軍官が従来の亀甲船を改造して、実用的に作成されたものと見られます。
 
2番目の問題は、亀甲船が果たして「鉄甲船」であるかという点ですが、現在ではほぼ否定されて居ます。
 
 
3番目の問題は亀甲船の詳細な構造です。
亀甲船の内部構造はどうなっていたのでしょうか?
これらの諸問題は、亀甲の内部が2層構造だったのか、それとも3層構造だったのかの議論とも繋がります。
 
4番目の論争の種は亀甲の大きさと重さ、隻数です。
亀甲船のサイズは時代に応じて変遷したものと思われますが、明らかなのは隻数が余り多くはなかったと言う点です。
これは亀甲の機能と関連しますが、先に述べたように亀甲は突撃用戦艦だったので敵船と接戦を繰り広げるには適していますが、敵を追撃して攻撃を加えるには不便な点も有ります。
 
隠蔽された亀甲船の中での活動が自由に出来ないからです。
この場合には、甲板上の広い空間で存分に活動できる板屋船がはるかに実用的でした。
亀甲船の数が制限された理由がまさに
これでした。
 
 
要するに亀甲船は、
日本の海賊集団と日本水軍の白兵戦に備え開発した突撃戦艦でした。
つまり、複数の重火器で武装した沿海用
突撃船で、ユニークなアイデアで設計された
特異なモデルの戦船だったのです。
 
カメの形で、竜頭から砲を撃ったり硫黄の煙を吐き出したとしたら、こんな珍しいデザインの戦闘艦は敵を当惑させて士気を低下させるのにかなり役立ったと思われます。
 
亀甲船は壬辰倭乱での勝利に大きな貢献をした後、朝鮮と日本の多くの人々に広く知られました。
亀甲船の様々な図は、そのような関心の一環だったと思われます。
 
<映画 バトルオーシャン명량のコブクソン>
 
現在まで伝わる亀甲船図は10余種に達し、
代表的なのは先の「李忠武公全書」に収録された記録ですが、興味深いのは日本で豊臣秀吉の一代記を絵で解説した本「絵本太閤記」に掲載された亀甲図で、リスンシン将軍がコブクソンで日本軍を撃退したと言う説明文が付いて居ます。
 
今後とも研究を続け、1日も早くコブクソン亀甲船の全貌が明らかになる事を願います。
 
 
<参考文献>
한국민족문화대백과사전
 

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