<4大門の名付け親チョンドジョン役のキムミョンミン ドラマ六龍が飛ぶより>
 
ワンポイントコラム
<韓国朝鮮歴史のトリビア>
115.ソウル漢陽都城と4大門
 
 
 
 
今回はソウルの城壁で有る「ソウル 漢陽都城」と付随する4大門•4小門について見たいと思います。
 
ソウルの羅城で有る城壁は「ソウル城郭」など様々な名称で呼ばれて居ましたが、
2011年「ソウル 漢陽ハニャン都城」と正式に
名称変更されまた。
ここには東大門,南大門など4大門も含まれます。
 
 
まず地図を見て驚かれるでしょうが、都城は現在のソウルのほんの一部です。
如何に近代ソウルが市域を拡張して来たか分かります。
東京も江戸からかなり拡張しましたが、玉川上水を確保する為、神奈川から編入した多摩を除くと環状6号線外郭の近郊農村を編入したに
過ぎません。
ソウルの場合は都城跡がソウルの都心部の一部に過ぎない位、大拡張して居ます。
 
都城は太祖李成桂が朝鮮王朝を建国し1396年に首都を漢陽に移した後、宮殿と都市を防衛する為に建てられました。
 
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ソウルの地理でも述べましたが、首都漢陽は「周礼」などの定める都市計画に沿って計画的に建設されました。都城も例外では有りません。
 
初期は自然石を積み、徐々に正方形の石で加工して重ね合わせる方法に変化し、後に洗練された正方形の形へと継続的にメンテナンスされました。
 
 
城壁の高さは、現在消失して居る区間では10m以上有る城壁も有りましたが低い区間は5m余りで平均高さ約7〜8m、全長約18.6kmに達し、現存する世界の都城の中で最も長い間、都城機能を果たしました。
 
日本の江戸城や大阪城、朝鮮の東莱トンレ城,晋州チンジュ城などと異なり堀が無かったので、防御力は期待しにくかったものと思われます。
 
その為、敵が漢陽まで攻めて来たら漢陽を捨て脱出しなければなりませんでした。
これは都城が戦争などの防衛機能よりも、王朝の権威の象徴としての意味がより大きかった為と言えます。
 
壬辰倭乱当時、城の一部が壊れ光海君が復元作業を進めましたが、丙子胡乱時の清との条約で城を復元も追加築城もしないという条件の為、放置された後1704年(粛宗30年)から1711年(粛宗37)まで修築し、1743年(英祖19年)に再び修復しました。
 
<古地図>
 
その他にも孝宗・顕宗・英祖・純祖時代に部分的な改修を行い、漢陽都城は90%ほど復元されましたが、植民地時代と朝鮮戦争で大部分が破壊されました。
 
現在残っているソウルの城郭は、概して太祖・世宗・粛宗の時のものです。
都城はベクアクサン北岳、インワンサン仁王山、ナクタサン酪酸山、モクミョクサン南山の4つの山を囲んで城壁を築き、
その間に門を作りました。
 
都の門は東西南北4つの大門と4つの小門のみ
です。
 
<旧韓末の崇礼門スンレムン:南大門>
 
大きな城門である
肅淸門スクチョンムン:北大門
興仁門フンインムン(のち興仁之門フンインジムン):東大門
敦義門トンウィムン:西大門
崇礼門スンレムン:南大門
の4大門と
 
恵化門へファムン:東小門
光熙門クァンフィムン:南小門
彰義門チャンウィムン:北小門
昭德門ソドクムン:西小門
の4小門でした。
 
​四大門の名前は儒教の仁義礼智信を表し、北門だけは風水説に準じて粛清門(のち粛靖門)になりました。
 
<陰陽五行説に則り建築>
 
陰陽五行説の定める4大門の中心に「信」の意を持つ普信閣(鍾閣)を配し、朝4時に33回、夜10時に28回鐘を鳴らし門を開閉しました。
大晦日のコマでも紹介しましたが、現在では除夜の鐘を鳴らして居ます。
 
各門について簡単に見ましょう。
 
◆興仁之門
漢陽都城の東側で「仁」に該当するので、「興仁門」と名付けました。王が都城を出入りする際によく利用しており、一般的に東大門トンデムンと呼ばれて居ました。
 
 
城の外側に半月形の瓮城옹성(おうじょう,曲輪)を積み、門に接近した敵を効果的に攻撃する事が出来ましたた。
高宗1869年に再建しましたが、低地帯に在り土地の気運を強める為に土地を意味する「之」を入れて興仁之門になりました。
興仁之門は大韓民国 宝物第1号です。
 
◆敦義門
漢陽の西にあるので西大門ソデムンとも呼ばれました。
1413年に一度廃止し他の場所に「西箭門ソジョンムン」を建てましたが、1422年現在の場所に新たに門を建てて「敦義門」としました。
日本植民地時代の1915年電車路線を作る際に日本によって跡形もなく破壊され名前のみ
残りました。
 
<ARで復元した敦義門(西大門)>
 
復元計画が幾度と無く持ち上がり2022年までに復元予定でしたが予算、土地、交通渋滞などの為事実上凍結され、2019年AR(拡張現実)による復元が完成しました。
 
◆崇礼門
朝鮮の首都漢陽の正門であり、南大門です。
大韓民国 国宝第1号です。
 
崇礼門の扁額は門の中で唯一縦になっています。1907年に城壁が壊され道路に孤立した姿になりました。
 
 
名前に火を抑えると言う意味が有り、唯一火事に遭わずに居ました。
しかし2006年ソウル市により中央通路が市民に開放された後、2008年卑劣な放火犯により焼失、2013年復元完了しました。
再建されても国宝の取り消しは有りません。
 
◆粛靖門
粛靖門は漢陽都城の北大門プクテムンです。
元々石門のみで、平時には閉鎖して深刻な干ばつなどの時だけ門を開きました。
当初粛清門とし、後に粛靖門に名前を
改めました。
 
 
1976年に門楼が建築されましたが青瓦台の警備上立ち入り禁止、2006年に開放されました。
2020年に失踪したパクウォンスン前ソウル市長の遺体が発見されニュースになりました。
 
次に4小門について見ます。
◆恵化門 
漢陽都城の東北にあり、東小門トンソムンとも言いました。
恵化門は興仁之門と粛靖門の間にありました。
最初は弘化門ホンファムンとしましたが、昌慶宮の正門もホンファムンなので中宗期に恵化門に変更しました。
1930年に撤去されましたが、1994年に今の
恵化洞に位置を移動して新たに建てました。
 
< 恵化門>
< 光熙門>
 
◆光熙門
漢陽都城の南東、興仁之門と崇礼門の間にあり、水口門スグムンと言いました。都城の死体が通る門として死口門とも呼ばれていました。
日本植民地時代に幾つか崩れ、1960年には道路工事で半分崩れましたが、1975年僅かに移動して現在の姿に復元しました。
 
◆彰義門
彰義門は漢陽都城西北にあり、敦義門と粛靖門の間に位置し、北小門プクソムンと呼びました。
1623年仁祖反正時に都城に進入した歴史の現場です。
漢陽の小門の中で唯一英祖時の姿を保っており、大韓民国宝物に指定されて居ます。
 
< 彰義門>
<昭德門(昭義門)>
 
◆昭德門(昭義門ソウィムン)
崇礼門と敦義門の間に在った門です
漢陽都城の西南に在り、西小門ソソムンと呼ばれていました。
光熙門同様に都城内の民が亡くなった時はここを介して行きました。
英祖期に修理し昭義門に変更しましたが、1914年日帝によって完全撤去され、今では写真でのみ昔の姿を見ることができます。
 
ソウル漢陽都城は1974年から復元が
進みましたが、景福宮の光化門に見る様に、当時の軍事政権下で考証無視の欠陥工事が批判を呼びました。
その後、復元プロジェクトが発足、2013年には南大門復元と同時にそれまで無かった南大門附属の城壁も復元、他にも引き続き復元中です。
 
<2010年新たに復元された景福宮 光化門>
 
城壁と同時に散策路も整備され、市民と観光客の貴重な憩いの散策路となって居ます。
それと共に交通制限も設けられ、大型トラックなどの立ち入りを禁止するなど旧都城地区の環境保護にも力を入れて居ます。
 
2012年にはソウル漢陽都城がユネスコの世界文化遺産暫定リストに登載され世界遺産登録の途が開けました。
 
<インワンサン付近の都城>
 
ソウル市はユネスコの勧告基準に合う保存管理をする為に漢陽都城専門部署を新設、漢陽都城復元事業に多くの予算を投入、年次ごと叢書と資料集を発刊して、これを基に世界文化遺産登録申請書を提出しました。
 
しかし、2017年イコモスから他の国の世界遺産都市の城壁と比較して「優れた普遍的価値」を満たしていないという評価を受けて登載が不可能になってしまいました。
 
現在、2022年世界遺産登録を目標にテーマやデータを補強して再推進するべく準備中です。
今後の成り行きを注視したいと思います。
 
<参考文献>
한양도성  서울특별시 
한국민족문화대사전 
나무위키 
서울4대문과 4소문 명칭 
중앙일보  서울 4대문(門)에 무슨 뜻이 담겨 있나요
동아일보  한양도성, 유네스코 세계유산 등재 아쉽게 불발

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