<庶民のイキイキとした姿を描いたドラマ客主>
 
ワンポイントコラム
<韓国朝鮮歴史のトリビア>
107.離婚❷一般庶民
 
 
 
 
前回両班の離婚事情を見ました。
両班にとって離婚は難しかったと言えます。
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では庶民はどうだったでしょうか?
一言で、両班とは異なり離婚は簡単だったと言えます。
 
朝鮮王朝時代に一般庶民が離婚を希望する場合には通常、二つの方法が有りました。
 
①1つが「サジョンパウィ事情罷議사정파의」
②もう1つが「ハルグプヒュソ(割給休書할급휴서」です。
 
「事情罷議」とは、特別な理由でもはや夫婦で暮らす事が出来ないと思われる場合、夫婦が向かい合って話し合い決別する事で、今日の基準で見てもとても紳士的な決着です。
一言だけで終わりです。
確認の為、文書を交わす事も有った様です。
 
<朝鮮王朝時代の離婚書>
 
「割給休書」とは、ナイフでチョゴリの前裾(まえすそ)を切って、それを相手に離婚の意思として与え、相手がそれを受け取れば離婚を受け入れるという意味になるユニークな別れ方です。
 
これは服の上地と下地を繋ぐ部分を切り取る事で、もう一緒には居られないと言う意味を表して居るのだそうです。
これを略して휴서ヒュソとも言い、訛(なま)って수세 スセとも言いました。
 
つまり、日本の三行半(みくだりはん)に似て居ますね。
 
<チョゴリの前裾を切り渡す。場合によりオッコルム(結び紐)を渡す場合も>
 
「ハルグプヒュソ割給休書」つまりヒュソの場合、
相手が別れを受け入れる事がまるで『切り取った裾が翼を広げた蝶の形のよう』に見えると言う事で、
『ナビ나비 蝶を与えた』という言葉で離婚に同意したことを表現しました。 
 
前回引用したドラマ「客主」でも、ヒロインは夫(六矣廛の大行首)に服の裾の切れ端を与え、彼は『私にナビを掴ませるのか?!』と大慌てして居ましたが、強制的に掴ませたのでヒロインは彼に有無を言わせず家から出て行きました。
 
<ヒュソを渡すヒロイン>
 
離婚に同意する証しとしては、正(まさ)しく相手に自由になるナビ(蝶)の羽根を与える様な行為で有り、離婚にゆらゆらと自由に美しく舞う蝶を思い浮かべる先祖の情緒ある行動と感情に、我が民族のウィットに満ちた粋(멋モッ)を見る気がするのは私だけでしょうか。
 
と、離婚を褒めてはいけませんね(笑)。
 
これもまた一種の離婚合意書のようなもので、庶民はこの様な簡単な方法で自由に離婚を選択しましたが、離婚後も、経済的な理由で同じ家で、同じ部屋で区域を定め同居を継続する場合もあったそうです。 
これも一種の家庭内離婚でしょうか?
 
<キムホンドの「新行図」新行:結婚色を挙げ新婦の家から新郎の家に行く儀式>
 
両班には事実上難しかった離婚が庶民の場合比較的自由だったのは何故でしょう。
分割すべき財産も、他人の顔色を見る体面も、感情を騙しながら守らなければならないだけの家の名誉もない一般民の場合、自分の心の赴くままに行動する事が可能で、現代の我々より自由だったのかも知れません。
 
また、これらの慣行は名目上の婚姻関係を維持しながら、蓄妾(妾を多勢抱える事)する事が出来た支配層とは異なる婚姻制度に起因するものだったとも言えます。
 
朝鮮王朝時代には離婚が成立した後、両班でも庶民でも式年(3年ごと)に国家(戸曹)で実施する一種の人口調査時にこの事実を国に報告する必要がありました。
 
< 夫が離婚の意思と想いを切々と書いた書類>
 
幾ら自由な選択で離婚したとは言え、職業が多い現代と違い、離婚した女性が経済力を持って社会で生きて行く事は、個人にとっても国にとっても大きな負担だったと言えます。
 
だからだったのでしょうか。朝鮮王朝時代には離婚した女性の為のユニークな(?)習慣が有りました。
 
「ハルグプヒュソ割給休書」として切り取られた服の前裾を持った女性が、それを持って早朝夜が明ける頃に祠堂サダンに立っている場合、最初に彼女を見た大人の独身男性は彼女を連れ帰って、彼女を娶らなくてはいけませんでした。
これを보쌈ポサム制度と言います。
もしくは習妾スプチョプと言います。
基本、結婚出来なかった老チョンガク(独身)に貰われたそうですが、たまに通りがかった両班の妾に貰われることも有ったそうです。
 
オマケですが、最近(2021年5月)同名のドラマ『ポッサム』が放映開始しました。
 
<보쌈ポサム制度>
 
経済的にも不安定な離婚女性に、社会が福祉を保障できない代わりに、朝鮮王朝社会が不文律として設けた安全弁と言えそうで、当時の朝鮮王朝時代の特殊な社会福祉思想を知るひとつの事例と言えます。
 
朝鮮王朝は時代を重ねるごとに、男尊女卑的な考え方に満ちた社会へと変化しながら、多くの性の不平等の問題を量産しますが、国がひたすら男性の方にのみ離婚の自由を与えるという考えで社会が進んで行ったのではなく、それなりの倫理と道徳に則り、人間味の有る基準で離婚制度を運営して行ったと言えます。 
 
<ラストプリンセス徳恵翁主と宗武志>
 
ついでに近代以降の離婚制度を簡単に。1905年「刑法大全」で子供が居る事を離婚禁止項目に追加しました。
 
日本の植民地になった後の1912年「朝鮮民事令」を公布して日本の民法を採用した上で、親族と継承権は朝鮮の慣習に基づくとしました。
 
1915年協議離婚を慣習法として認め、法的に離婚の自由を認めました。
 
裁判離婚も承認、日本民法に基づき有責主義を採用して、社会的に不利な地位の妻の離婚にあっても、より合理的な基準を採用しました。
 
しかし、妾の存在だけでは配偶者への侮辱とならず、男性中心的思考が残っていて、蓄妾は解放以後になってようやく離婚原因に認められる様になりました。
 
 <ドラマ 離婚弁護士は恋愛中>
 
解放後の詳しい話は省略しますが、南北とも協議離婚、裁判離婚を認めています。
よく、社会主義社会では離婚が無いとか認められないイメージが有りますがそんな事は有りません(笑)。
 
離婚制度については、人権と家族制度の擦り合わせが世界の流れ同様に求められていると言う事を強調しつつ筆を置きます。
 
<参考文献>
한국민족문화대백과사전
조선시대에도 과연 이혼을 했을까?
 
 
<ドラマ 最高の離婚>