<ドラマ 独島将軍 安龍福>
 

3 地理-19.

        鬱陵島(ウルルン島)

 

 

 

 

慶尚道の広域市を全て見たついでに鬱陵島울릉도ウルルンドに寄り道したいと思います。

鬱陵島は慶尚北道、鬱陵郡に属し我が国で9番目に大きい島です。

 

 

面積は72.86km²なので日本の伊豆大島(91.06)より少し小さく、八丈島(69.11)より少し大きい位です。

東京ドームと言う表現なら1550個分ですがピーンと来ませんね。

 

 

慶尚北道蔚珍郡からは130kmで、東京竹芝桟橋から伊豆大島までの距離に近いです。

 

独島(竹島)とは87.4km離れて居て晴れた日には島が見える事は以前独島のコマで書きました。

 

↓↓↓コチラです↓↓

 

<遠くに独島が見える>
 

住民数は2020年現在9,348名です。

火山島で、最高峰は聖人峯성인봉ソンインボン984mです。

この前KBSの料理番組で取り上げて居ましたが、殆ど平地は無く島全体が山になって居ます。

 

道が悪いのでタクシーも全部4WD(4輪駆動)だそうです。

豪雪地帯で、その為渇水問題は起きない様です。

 

異称は多く、우릉도(芋陵島), 우릉성(羽陵城), 울릉도(蔚陵島), 울릉도(鬱陵島), 우릉도(于陵島), 무릉도(武陵島)などで、殆どウルン,ムルンと言う発音です。

 

<島の街並み>
 

「新羅時 稱于山國 一云鬱陵島」と言う世宗実録地理誌の文章があるとおり、古代より于山國우산국ウサン国、ウルルン島と呼ばれて居ました。

 

ここで于山, 鬱陵語源ですが、日本の記録で宇流麻島、芋陵島、迂陵島など「うるま」と記して居る事からも、우루 +  = 우루마で上の床윗마루、上の山웃뫼、上の人の山웃사람 などを表して居ると思われます。

(루るは人や地名に付ける言葉)

 

紀元前4世紀から1世紀頃の物と思われる支石墓고인돌が有るので、青銅器時代には古代朝鮮の種族、예맥(濊貊)イエメク族が住んでいたと言われています。

 

三国時代には于山國ウサングクと言う小国でした。

三国史記三国遺事に新羅、이사부(異斯夫)イサブによる512于山国の征服記事が見えます。

 

<鬱陵島ホームページより>
 

引用します。

于山國が服属して毎年土産物を貢物で捧げた。

于山国は溟州명주ミョンジュ東海上の島で울릉도鬱陵島ウルルン島とも言う。

土地は四方100(40km)だが、地勢が険しい事を頼みに降伏しなかった。

이사부(異斯夫)イサブが木で獅子を沢山作って戦艦に分けて積み、海岸に至った。

イサブは嘘をついて言った。

「お前たちがもし降伏しなければ、この猛獣を放ち踏み殺す。」

その国の人達が恐れ、即刻降伏した。

 

       (三国史記)

 

<古地図>


なんだか、ドイツの歴史家シュリーマンがトロイの遺跡を発掘したキッカケになった「トロイの木馬」のお話の様で、太古の姿が目に浮かぶ気がします。

 

新羅は于山国を滅ぼさず、朝貢国として服属させました。

前近代に東アジアでは中国に朝貢しつつ、藩国を支配する「外王內帝」制度(外には王を称し、内では皇帝を称す)が一般で、高句麗高麗そしてベトナムでも行われました。

新羅でもそれに倣った模様です。

 

高麗時代も服属して居ましたが、11 世紀に女真族の海賊に荒らされ国は崩壊、民衆は本土に避難し、朝鮮時代になっても人口は少ないままでした。

 

<名勝の滝>

 

名前の由来については先程述べましたが、鬱陵島については伝説のユートピア武陵桃源무릉도원ムルントウォン存在が混じり、ムルンド武陵島とも呼ばれ、ウルン島とムルン島のペアで語られる様になりました。

 

このペアの島が独島と竹島(竹嶼島)どちらを指しているかが現在の日韓独島論争の焦点と言って良いでしょう。

早計な判断は難しい為、結論は避けます。

 

<観光地としても人気>

 

鬱陵島を取り上げる時に外せないのは、漁師,安龍福안룡복アンリョンボク働きです。

彼は民間人ながら、外交上の懸案だった鬱陵島の日本との領土問題を解決する偉業をなし遂げました。

 

鬱陵島に於いては、11 世紀以降も倭寇の荒らしが酷く、朝鮮王朝の太宗時代1417年に住民を本土に移住させる空島政策を取る事になりました。

 

それにより日本との領土問題が持ち上がります。

 

<安龍福の書籍>

 

現在は独島が領土問題の焦点になって居ますが、朝鮮王朝時代には人の住めない独島よりも漁業に最適な鬱陵島が一番の領土問題でした。

特に1592壬辰倭乱前後、日本人漁師の出入りが増えて、朝鮮人漁民との衝突が頻発に起こる様になります。

 

安龍福は東莱府出身の平凡な漁夫で、水軍の능로군(能櫓軍:櫓ろを漕ぐ人夫)も務め、釜山の倭館に出入りした関係で日本語も流暢でした。

 

<鬱陵島ウルルン島韓国地図>

 

1693(粛宗19) 彼ら漁夫40余名で鬱陵島で漁をして居ると、日本人の船が多数居たので박어둔(朴於屯パクオドゥン)と共に詰責(きっせき)し、伯耆まで渡航し抗議しました。

 

この時、伯耆の守と江戸幕府から鬱陵島が朝鮮の領土で有るとの書契を貰うも、途中長崎で対馬島主に書契を奪われたと後に述べています。

 

対馬島主は2人を朝鮮に送還しながら

竹島(鬱陵島の事。1905年まで日本の竹島は鬱陵島、独島は松島)の所有権を要求しました。

この要求に対し、朝鮮王朝政府は鬱陵島は我が国の領土で有ると強硬に拒否しました。

 

<ドラマにて>

 

1695年、鳥取藩に鬱陵島、独島両島の件を問い合わせた将軍,德川綱吉は、明くる年日本人の鬱陵島への渡航禁止を通達しました。

 

安龍福が同年(1696)5月に、僧侶を含む10人の漁夫を引き連れ再度鬱陵島に行った所、またもや日本人漁民が居たので追撃、鬱陵島と于山島(独島)領有の抗議の為伯耆を目指し、途中壱岐に着岸しました。

 

隠岐では船内や持ち物など詳細に取り調べを受けましたが、このとき彼は松島(独島)を于山島とし、江原道に属すと述べて居ます。

そして上記の事実を叱責しました。

 

隠岐での取調べ後、税を取り立てる役人を装い、船首に「朝鮮鬱陵于山両島監税将臣安同知騎」と書いた旗を掲げて、抗議のため自ら伯耆へ向かい、伯耆の太守から2島とも貴国に属し、今後侵犯者は厳重処分する」との約束を受けました。

 

<島内の眺め>

 

この時の安龍福の供述内容は朝鮮実録の1696年条に有ります。

 

『途中狂風に遭い隠岐島へ漂着し、島主へ「前1693年に来た時、伯耆国で将軍から鬱陵島と于山島までを朝鮮領と定めた書契をもらったが守られていない」とせまったが返答がないので伯耆国へ行った。

そこで「前に来た時に将軍からもらった書契を対馬藩に奪い取られ、その後対馬藩は何度も使者を送って横暴を極めているので将軍へ上訴文を提出したい」と言うと、対馬藩主の父親がやって来て将軍に伝わると息子が死罪になるのでやめてくれというので、その代わりに越境してきた15人の日本人が処罰された。

そして、そこから船で帰った。』

 

この安龍福の行動の大筋は、日本側の資料と一致しています。

 

<釜山に有る銅像>

 

安龍福は帰国後捕らえられ、ソウルの備辺司へ移送されました。

備辺司での尋問後、外交上の懸案を解決した功績は有る物の、国禁を破り日本へ渡航し、官吏を偽称の上交渉した罪などにより死刑は免れたものの、流罪となりました。

 

明くる年の1697年、対馬より鬱陵島を朝鮮の領土として確認する幕府の通知が来、その後両国で確認の書契が往復され領土問題は完全に決着しましたが、彼の罪は消えずその後の消息も知れません。

 

<島の頂上 聖人峯ソンインボン>

 

しかし、一介の漁夫ながら重大な外交問題を解決した偉人として彼の名は後世に高く評価されて居ます。

 

その後も長らく空島政策は続きますが、1881年日本人の材木無断伐採が伝わると政策を変換、移住を促し、開拓政策に転換し現在に至ります。

 

2020年11月より紆余曲折の末、2025年開港を目指し空港建設が開始されて居ます。

 

<ウルルン島が舞台のドラマ

『同床異夢  大丈夫、大丈夫』>

 

済州島以外では島嶼で初の空港で有り、観光や防衛上、画期となる事が期待されて居ますが、環境汚染や滑走路の短さなどの問題が指摘されており注視する必要が有ります。

 

<参考文献>

울릉군청 홈페이지 

울릉도는 고려중기까지 독립왕국이였다

울릉도 독도 우산도 죽도 송도 삼봉도 우릉도 무릉도 의죽도 송죽도의 뜻과 의미

日本版Wikipedia

한국민족문화대사전 

조선비즈 2025년부터 비행기타고 울릉도 간다... 울릉공항 실착공 돌입

 

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<ドラマより>