<大ヒットした映画タクシー運転手>

 

第2 4 現代-⑧世襲と暗殺 独裁の明暗(70年代中盤〜90年代初)

 

  

70年代中盤から80年代は南北体制の競争と体制の後継作りの最盛期だったと言えます。

 

共和国では72年に金正日が後継として内定、73年に党秘書、74年には中央委政治委員に選出、芸術分野を皮切りに「栄えある党中央」と言う表現で地盤固めに入り、唯一思想体系の完成と自己の唯一的領導体制確立が両輪で進められました。

 

正式には1980年党第6次大会がお披露目で、党書記の肩書と共に「親愛なる指導者同士」として後継の前面に立つ事になりました。

 

<朝鮮労働党 第六次大会>
 

その党大会で十大展望目標が打ち出され、完成された暁には社会主義革命が達成され共産主義社会への入り口が開かれると盛んに喧伝されました。

 

82年の金日成誕生70周年を記念し主体思想塔凱旋門などの大規模的記念創造物が建立され、ピョンヤンはさながらテーマパークの如く装飾され、その流れは今なお形を変え続いて居ます。

 

<世界一の凱旋門>
 

しかし84年をピークに異常気象などにより生産力が落ち込んだ農業生産と共に経済成長は停滞を始め、いつしか十大展望目標も計画経済も未達成によりうやむやになって行きます。

 

それはこれ迄の『速度戦』などと呼ばれる過度な計画ノルマの向上運動等による綻びや唯一思想体系確立による社会の硬直化、韓国が国際社会に認められる契機となった88年ソウルオリンピックに対抗する為に、分相応以上の対応で臨んだ13次世界青年学生祝典への支出も大きな原因と言われて居ます。

 

<故キムジョンイル(金正日)書記>
 

70年代金正日が登場した時から中国の紅衛兵よろしく彼の後継体制確立の目的も含めた「三大革命小組運動」が始まりました。

 

モチベーション向上と技術・文化の革新を目標に旧弊打破を掲げ盛んに繰り広げられましたが、

小組の過度な干渉により生産現場は混乱をきたし一部権限をトーンダウンせざるを得ない状況に陥りました。

 

<3大革命小組 大会>

 

この様な中国の文化大革命を彷彿させる手法は、後継のイメージUPとリーダーシップの高揚と言う政治的効果と短期的な経済効果はあれど、結果的に社会を混乱させる遠因となり、長期的には経済にとってマイナスです。

 

また先だっての70年代石油危機によるプラント導入失敗などの後遺症、そして85年ソ連のゴルバチョフ登場による世界情勢の変化など様々な面で出口が掴めない複合的な状況が沈滞を招きます。

 

<ゴルバチョフのペレストロイカ>
 

84年には中国の改革開放に倣い合弁法を制定し資本を呼び込もうとするも、法整備の不備により在日商工人がメインの小規模合弁のみだった上、商取引き慣習の無知からトラブル続出で下火になって行きました。

 

余談ですがこの時期資金繰りとして盛んに在日朝鮮総聯への献金要請がなされ、バブル経済拡大に伴い数億ドルの資金が共和国に流れバブル崩壊後の朝鮮総聯の体力を奪う結果に繋がります。

 

<貨客線 マンギョンボン号‘92>

 

残念ながら70年代半ばからの後継者登場と同一視される事が多い経済難ですが、社会主義国間の不協和音、2度の石油危機に対する対応の違い(資本主義国-技術革新、社会主義国-従来の設備維持)による相対的な競争力低下など、この時期がその後の制度的な敗北の分水嶺になった事が不幸だったと言えるかも知れません。

 

国際的な環境も先程のゴルバチョフ台頭により社会主義の求心力が衰え経済援助も激減するなど、孤立無援に陥って行きます。

韓国の北方外交を睨み西側社会に目を向け、1991羅津・先峰(のち羅先라선市)自由経済貿易地帯を設置、外資導入法を整えましたが、効果が出るのは先の事でした。

 

<ラソン(羅先)市 自由貿易地帯>
 

この時期81年に招致決定のソウルオリンピックで攻勢を強める韓国に対し、テロ事件など国際的信用を失墜させる事件が度々起こりました。

 

これらの事件は今なお北の犯行か南の自作自演か判断が分かれています。

 

そして政権固守の切り札として、80年代前半より核開発が始まり開発を強化、ソ連崩壊後の93NPT脱退宣言など国際社会と対決しつつ生き残りを賭けアメリカと綱渡りする外交政策へと繋がって行きます。

 

<パクチョンヒ(朴正煕)暗殺>
 

韓国では永久執権を夢見た朴正煕民主化運動の大きなうねりを抑え付けた中、79年釜馬(釜山と馬山)人民蜂起の対応を巡る内部葛藤により、部下のKCIAキムジェギュ(金載)に暗殺されるショッキングな事件の後、チョンドゥファン(全斗煥)による粛軍クーデター、ソウルの春への戒厳令をキッカケとした80518日の光州人民蜂起へと続きました。

 

<光州人民蜂起−民主革命>
 

5.18光州抗争は大弾圧により鎮圧され、彼らは長らく暴徒として汚名を浴び真相を隠蔽され、名誉回復された今でも未だ真相究明が待たれて居ますが、敗れはしたもののその後反米自主化の流れやチュサパ(主思派)と呼ばれる左派の形成、全大協の伸長など、より幅広い民主化運動への土台となり、民主化達成の構図が出来上がります。

 

<パクジョンチョル烈士とイハンリョル烈士>
 

そしてオリンピックを控えた1987年、後継として登場した盧泰愚体制に反対する民主化闘争に於けるパクジョンチョル烈士拷問致死事件を契機に巻き起こった6月人民抗争は、リハンリョル烈士の犠牲によりピークに達し、遂に6.29宣言を引き出し大統領直接選挙を勝ち取るなど民主化の第一歩となり、韓国民衆にとってまたしても貴重な成功体験となりました。

 

<6月人民抗争>
 

この時期を知るにはドラマ「第五共和国」、映画「タクシー運転手」1987年〜ある戦いの真実」が必須です。

 

映画 タクシー運転手レビュー↓↓

 

経済的には70年代後半から1980年代初迄の世界不況に際しては財閥支援と労働賃金・農家切り捨て政策により独占資本による経済支配を高めました。

 

85プラザ合意による低金利・低油価・低ドル(還率)と言う「三低」の恩恵を受け、輸出主導型経済は「檀君以来の」好況を迎えますが、輸入増大による外債の増加はのちのIMF危機の下準備となります。

 

<ドラマ 第五共和国>
 

87年の民主化運動と結びつき労働運動が鷹揚しますが、賃金引き上げが90年代工場の海外移転促進を促し、産業空洞化が起こるきっかけになりました。

 

<88 ソウルオリンピック>
 

対外的な国威高揚としては86年アジア大会88年ソウルオリンピックの成功が嚆矢でした。

懸念されたオリンピックは史上最高国参加となり、共和国との体制競争に事実上ピリオドを打つ結果となります。

民主陣営の不調和による漁夫の利で大統領の座を確保したノテウ(盧泰愚)は先人の轍を踏まず、軍服を脱ぎ「ポトンサラム(普通の人)」をキャッチフレーズに民主化を約束、89年のハンガリーを皮切りに90年のソ連との国交樹立、92年の中国との国交樹立まで社会主義諸国との北方外交へと進んで行きます。

 

<南北基本合意書>
 

この様な自信の中で共和国との対話ムードが熟成され、1990第一回南北高位級会談に始まり1991南北国連同時加盟、同年の南北基本合意書の採択で南北関係は新たな局面を迎えました。

 

↓↓↓お好きな時代へ↓↓『M-7.歴史まとめと時代区分』Mー7.歴史まとめ第2章 歴史まとめです。ブログ番号7〜40番となります。原始時代を書き終わったのでようやく完成です。見たい記事の題名をクリックして下さい。リ…リンクameblo.jp

 

 

<参考文献>

山川出版社 世界歴史体系 朝鮮史2

山川出版社 朝鮮現代史

河合和夫 プラザ合意後の東アジア域内分業の新展開

 

#韓国ドラマ #韓国時代劇ドラマ #韓国映画

 愛のムチならぬ愛のポチお願いします ↓

にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ

 PVアクセスランキング にほんブログ村 

ブログ村参加して居ます↑

韓国・朝鮮よもやまばなし - にほんブログ村

 

<映画 1987 ある闘いの記憶>