いまさらではあるが。確認するよー。


ゴダールも、ヴェンダースも。そして、黒沢 清も。
アメリカ人ではないね。





アメリカ映画が好きで。
アメリカ映画に接近しつつも。

撮る映画は、アメリカ映画とは違ってしまう。







ゴダール/ヴェンダース/黒沢 清







ゴダールの場合は、ほぼ説明不要。

いわゆる娯楽映画と距離を置いた。ゴダール映画。

そこでは。



映像と音響が、重視される。





物語は、あるよね。

まるっきり前衛ではないよね。


フィクションを楽しむ、コトは出来るの。






だが。


映像と音響が、互にテキストとしての存在を主張する。


をっと難しいコト言いました。



わかるー?





メタ・フィクションじゃないの。そりゃそう。





でも、映画を観てる観客があ…

スムーズに物語(嘘)に入り込めるような、「作られた自然らしさ」「現実らしさ」を演出しないのがゴダール。





ね?





観客は、これはフィクション(嘘)だとゆうコトを、忘れて物語に埋没するコトが出来ない。

ってトコロまではいきません。

いきませんけどもー。



映像と音響が、それぞれ… 作り物であるコトを隠さないとゆうのか。









           『夢の涯てまでも』









ヴィム・ヴェンダースは、嘘がつけない。


そう、わたしは書きました。






どうして、そうなのかはよくわからない。





ヴェンダースは、そうゆう人。 …どうゆう人?




アメリカ映画と刺し違えた人?







繰り返しになるけども。


『パリ、テキサス』。『ベルリン・天使の詩』。『夢の涯てまでも』の、時代を振り返りますよ。









『パリ、テキサス』で、どうだ!これが俺の作るアメリカ映画だ!

と、打ってでたヴィム・ヴェンダース。






わたしも、なるほど… 独特な映画になってるなー。と、のんきに楽しみました。





黒沢 清は、『パリ、テキサス』を見て。
負けるな、ヴェンダース。と、つぶやいた。






この時点では、ヴェンダースはギリギリのトコロで踏ん張っていたのかもしれない。



アメリカ映画と。


自然のような映像。そのふたつのキワキワで。







ヴェンダースは、『パリ、テキサス』とゆうアメリカ映画を撮った。




少し受けた。





次作の、ドイツて撮った…

『ベルリン・天使の詩』も、好評だった。










まあ、ボクはね。

「ん? なんか気持ち悪いな!」と、拒否反応を起こしましたが、世間には受けた。


少なくとも、マニア(コア層)には受けました。








そして、次作の『夢の涯てまでも』は、大不評。




それは言いすぎかも?








            『ベルリン・天使の詩』






ほんとうに、この時期のヴェンダース映画は。


スリリングで、興味深いですな!








なんだか、わからないんですけども。



まあ、わたし・五円木比克が唱える論を書きましょうか。






『ベルリン・天使の詩』は。

ボクからすると、恥ずかしい映画愛の映画。




ボクには恥ずかしくて気持ち悪いけれども(毒がすごい)
映画愛の映画なので、受けたのだと推測してます。






あのブルーノ・ガンツ(天使)は、観客そのものなんですよ。



そして。


あの映画の人間こそが、映画だと。




映画に魅せられる、観客。





観客は、映画そのものには触れられない。見てるだけ。






で…

そのあと天使は、映画(人間)に接触するワケで。





となると、天使=ブルーノ・ガンツは、ヴェンダース本人ですよ。






これ、無理のある論ですかねえ。






このあと。




『夢の涯てまでも』で、こんどは… 夢(映画)に中毒する人たちを登場させて。


批評家や観客から怒りを買ったヴェンダース。






こっちは、そんなに無理ない論でしょ!






夢(映画)に淫して、中毒患者になり。

ダメ人間と化す人々。




つまり、映画ファンが麻薬中毒者であるかのような。描写ですよ。





それは、怒るは。

映画ファンも。










(2017年9月9日)