本屋に行ったら、『黒沢 清の全貌』が売っていたので即購入。



エドワード・ヤンの本も売っていたので、こちらも購入。




















それにしても… トビー・フーパーがなあ。




ま、今年は…

松方弘樹さん、渡瀬恒彦さんもお亡くなりになってるので。

同世代のトビー・フーパーが死ぬのも、納得できぬコトはないが。




何度でも言いますが、『トビー・フーパー/黒沢 清』とゆう、
ふたりの対話を撮り、世界に発信するべきであった…











で、ハナシはゴダールに飛びますが。



ゴダールは、なかなか死なないですなあ!




同じ1930年生まれの、クリント・イーストウッドもですが…

当分、死にそうにない。


深作欣二さんなんて、とっくに亡くなってますよ!(彼も1930年生まれ)





ま、そこは人それぞれ。当たり前ですがあ。





ゴダールの映画なんですけど、
ボクの場合… 初期から、70年代~80年代~って、
ずっと好きだったんですが、90年代からこっち…

「あれ?」って感じで。

どうも、その、あまり面白くない。



ゴダールのせいなのか? こちらの変節か?





機会があれば、すべて見直して、おもしろいのか…つまらないのか、確かめてみたい。


『フォーエヴァー・モーツァルト』、『アワーミュージック』等。







↑『エドワード・ヤン  再考/再見』より










ゴダールは、最初から…

つまり、『勝手にしやがれ』の頃から、
映画のデタラメさを、「それはそれで、おもしろい」として…

デタラメちっくでもいんじゃね? とばかりに、
図々しく、しかし絶妙に仕上げた映画を発表してきた、と。



これ、映画史の常識ですね。










デタラメとは、何か。



組み合わせ、自由自在なのだと。映画は。


映像。人間。キャラクター。




しかし、『勝手にしやがれ』(1959年)は、なぜか…

ゴダールの好きなアメリカ映画に似せて作った… 傑作ともいえ。


ゴダール映画としては、誰が見てもわかる作品である。

犯罪/殺人/逃亡/恋愛。


男と女 in パリ。


ゴダール流の、アメリカ映画。B級犯罪映画。






しかし、すぐに… こうした志向は薄れ…
もっと、ぶっきらぼうにさめた風な作風に転向している。







            『中国女』






『勝手にしやがれ』では、
ゴダール(フランス人/スイス人)も、いっしょうけんめい物語に奉仕する映画を作ろうとした。




だが、どこかで、「あれ… ちがうな」と気づいたか。





ヲレ(ゴダール)が、物語(ウソ)を作るってのは… シンドいし疲れるし、
恥ずかしいし、ムリがあるよな。



そこから、「これは映像だよ」と、あからさまに宣言する作風。

物語も撮るけど、ウソはウソだよと、過剰に観客サービス(ほんとうらしくする工夫)はしない作風。


映画には、映画の現実がある、とゆう作風にシフト。






それでも、商業映画の枠のなかでやってきたゴダールだが。

60年代末、ついに商業映画と決別。




で、しばらくやってきて…


いつからか、「映像と音響」のスペシャリストとして、映画業界のマニア部門に君臨していたのだった。



あ、『勝手に逃げろ』(1979年)以降ですかね。







(2017年8月30日)