轟然、千秋楽。
無事終了しました。
ご来場のみなさま、出演各位、ありがとうございました。
久々のASSH公演、またひとつ温度が上がったものになり、感無量です。
座組のみんな最高でした。
サムさん、Kimeruさん、がどんどんアイデアを、そして考えを示し、
私の現場が初めてとは思えないほどに、松崎くんが色んな方向性を示し、
タケルと主水がダンスと殺陣の振り付けをし、もうみんながみんなそれぞれに機能してくれました。
この座組でなければ今回の「轟然」は生まれなかった。
ありがとう。
そして、その中心にいつもいたが、
林明寛でした。
あっきー。
「SOUL FLOWER」のジョーカー、「雷ケ丘に雪が降る」の鳴神雷切から三年ぶり。
今回も座長で、しかも美女丸という名前で。
あっきーのことはいつも頭にあって、でもこうしてこのタイミングで一緒にできて、
それでよかったんだと思う。
そして、これからもともに創りたいと思う。
「轟然」
というタイトルには実は勝手な思い入れがあります。
私が演出家を志そうと思ったきっかけに松尾スズキさんの舞台があります。
それまで、舞台といえば小劇場しか見てなかったんですが、
ある時、知人に連れられて草月ホールに観に行った松尾さんの舞台を見て、
衝撃を受け、それを契機に演出という職業を意識しました。
そのタイトルが「業音」(ごうおん)というものでした。
「轟音」に「業」をかけたもので、それこそ人間の業を深くえぐった作品でした。
「業」がかなでる「音」。
そのラスト、バスタブの中で松尾さんが一人語りしながらゆっくりと暗転していく姿は
いまでも思い出せる。
その影響でASSH「キスと半島と残酷」という作品をつくってそれがちょっと評判になり、
演出家としてやっていけるかもしれないと思ったのでした。
ま、それからの試行錯誤は語れないほどありますがね。
ともかくその松尾さんの「業音」は全然内容は違いますけども、圧倒的な悲劇だった。
その感じはちょっと残っていたのかもしれない。
以下にパンフレットの文言を掲載しつつ、無事終わったことに感謝の想いを乗せて。
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「轟然」
「轟然」という言葉を知ったのは、東急の文化村で美術展を見た帰りに寄った本屋で、立ち読みした民俗学の本からだった。
凄まじい音が山間に響く。
すると、大雨が降り出した。
その耳をつんざくばかりの音を轟然たる音と呼び、人々は龍の叫び声と信じていた。
みたいな描写だったか。
「轟」の字も「車」が3つでなく、「龍」が3つで、「ごうぜん」と読ませていた。
その言葉に啓示を打たれ、僕は「轟然」を書き始めた。
初演を書いた時は、ASSHの方向性をネオフィクションにしようと決めつつあった頃。
念入りに下調べして、脚本をつくろうと想い、山梨の滝や湧き水を見て回った。
箱根の九頭竜神社も何度も行った。
湧き水の周りには、必ずといっていいほど龍に関わる伝説があった。
そこには、太古の人々の自然に対する畏敬の念と、恐れと、そして自然とともに生きているという生命力が感じられた。
そこに、「轟然」という言葉が頭を巡り、次々にイメージが湧いていく。
その内に、やはり龍退治をしたという武士の伝説に突き当たった。
その息子の名前を美女丸と言った。
ずいぶんな名前をつけたなーと思いつつ、能にもなっている美女丸と幸寿丸の伝説を知った。
そして、幸寿丸の辞世の句があることも知り、その何とも凄まじい生き方に、この伝説を轟然の中心となるモチーフにしようと思いたった。
死には二つあると言う。
心の死と、肉体の死と。
昔は肉体の死よりも、心の死の方が重んじられていた。
主君を見殺しにすることは、心の死に値したのだろう。
それは、人々を渇水から救うために自らの命を差し出す、伊月と真名の姿にもだぶる。
その二人の生き様に触れ、美女丸もまた成長していく。
それはまた、自分自身の姿ともかぶり、役者の姿にも重なるのだ。
× × ×
借りてきた先人の生き様に畏敬の念を持ちつつ、稽古場で試行錯誤してつくりました。
ASSHとしても1年ぶりの本公演。
記憶に残るものになりますように。
まつだ壱岱