昨日は映画、パネルトーク、そして、懇親会。
映画を映画として個人的に楽しむのであれば、ここに書くことは全くあてはまらない。
ただ教育現場に関わる人、あるいは関わろうという人が、この映画を学校現場と捉えて、それに感動して、取り組みや考え方を実際の学校教育現場にも!という自分以外にそのままあてはめるような浅はかな思考停止状態になることは避けてもらいたい。
しかもそれが基本的に「善意のかたまり」であることが非常に危険なことだと思う。
大人の「善意」が子どもにとって「善意」として受け取られるとは限らない。
でもその「善意」を振りかざして迫られると、子どもたちは受け止めざるをえなくなり、子どもたちの「助けて」という声を押さえこんでしまうことになりかねない。
木村さんも言っていたけど、本当にこれはちっさなレンズだけでとらえたものに過ぎない。
現場にはそれを取り巻く親がいて、なによりもこの映画にでてきて、多くの方が感動した子の50倍以上の子どもがそこにはいる。
そして、その子たちも同様に日々を精一杯生きている。
この映画を見ているとき、常にその子たちのことが気になった。
そこに写らない子どもたちのこころが気になった。
だから、どのエピソードを見ても泣くほどの感動はなかった。
木村さんから後日談をいろいろと聞き、子どもたちはそれぞれが柔軟にここで学んだことを消化し、吸収し、成長したんだろうな、と思った。
子どもはそういう力を持っている。
でも、だからといってそれがベストかどうかは、それこそ子どもに聞いてみないとわからない。
そこにいたから、伸びたかもしれない力が伸びなかった子もいるだろう。
究極的には、そこにいる本人以外どうだったかなんて判断はできないと思う。
「善意」が溢れている「学校」という場所だからこそ、そういう視点を常にもつ必要はあると思う。
感動は人を動かす原動力になる。
しかし、同時に感動は人を思考停止にもする性質もあると思う。
しかも、心が動いただけに、善意として胸に留まり、思考停止のまま原動力になってしまうことがある。
自分自身だけに対してのことであればいいが、それを自分以外の第三者に向けていくのであれば、その思考停止状態のままではいけない。
ずっと考え続けなければならないと思う。
そして、ずっと学び続けなければいけないと思う。
これですべてOK!と思った時点で、おそらくそれはNG。
これで子どもたちはすべてOK!という思いこそ、善意を含んだ人権侵害といってもいいかもしれない。
一人一人が違うのだから、全部OK!になんてならないはず。
あと気になったのは、周りが木村さんを持ち上げすぎてないか?ということ。
きっと木村さん自身も気持ち悪いのではないかと思う。
自分だったら気持ち悪い(笑)
木村さんも何度も繰り返していっていたけれど、特別なことは何もしていない。全力で子どもたちに向かっているだけである。
自分の仕事を全うしただけ。そのような自覚をしっかりとされているので、木村さん自身がぶれることはないだろう。
もちろん私は木村先生は素敵な先生だと思っているし、とても好きだ。
ただ、そうやって過剰な礼賛的関わり方をしている人を見ると、そういう関わり方をしている人の変な上下関係を感じてしまう。
「人はみな対等である」ということを常に思っているし、それを実践したいと思っている自分にとっては、気持ち悪い(笑)
まぁそうではない人にはそれほど違和感はないのかな。
まぁ木村さんはそんなことに振り回されるような人ではないから、どっちでもいいんだけど、気になったので。
と、いろいろと書いてみたけれど、伝えたいことは木村さんのいっていること変わらない。
目の前にいる「ひと」を大切にし、学び続け、理論や情報、資源などのリソースに振り回されることなく、うまく活用して、そこにいる当事者が協力しあってなんとかしていく、ということが大切なのだと思う。