『痛みや不調の原因は、関節が9割』関節にすき間創れば身體が変わる究極のメソッド

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あらゆる痛みや不調、スポーツパフォーマンスの低下、体型が変わらない原因の9割は、関節のすき間がなくなることで起きる。
『痛みや不調の原因は、関節が9割』関節のすき間創れば身軆は変わる!
関節のすき間を創って身軆構造を変化させる究極のメソッドを伝授!

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【将来トレーナーになると決めるきっかけとは】


高校に入學後は、先輩達の潜在能力の高さ驚きもありましたが、勿体なさを感じていました。

それよりもまずは自分の能力を上げること、そして、早くレギュラーを取ることを目標に日々練習に明け暮れていました。

入學当初から高校2年の秋頃までは、内野手(主にサード)をしていましたが、
同級生の世代のメンバーがたった6人しかおらず、キャッチャーがいなかったのもあり、
また、バッティング練習でキャッチャーをやっていての面白さもあり、本来は自分達の世代の新チームになってから、コンバートしようかと思いましたが、
先輩達からも早いうち良いとのことで、高校2年の秋頃からキャッチャーへコンバートしました。

その高校2年の秋の時にある事件を起こしてしまいます。

それは、羽曳高祭という、文化祭と体育祭を同時開催(2日間に分けて行う)する時に起こしてしまいました。

羽曳高祭も終わり、全ての片付けも終わり、待機していた1年生の教室でそれは起こります。

まぁ、その教室のクラスの指示と、待機していた私達のクラスの指示との行き違いにより起こったことなのですが、その教室のクラスの1年生の男子2人と揉め事を起こしてしまうのです。

まぁ、その揉め事が発端で、停學処分となりました。
⇒停學処分に至るまでの學校側の対応に不信があり、その解決も含めて、1週間近く休みました。

その學校を休んでいる間に、
自宅近くの書店に足を運んでは、
高校生では珍しい『IRONMAN』や『MUSCLE & FITNESS』の雑誌を買っては、
ウェイトトレーニングの勉強しました。

また、将来を考えた時に、プロ野球選手を目指してはいたものの、
今の環境(指導者もいなかった)を考えると、
やれても大學かノンプロの社会人までかなぁ?
と選手としての限界を感じ始めていました。

その思いもあってか、先輩や同級生、後輩の選手達を見ると、潜在能力に溢れていることに改めて氣付き、
その能力を何とか好きなトレーニングで開花できないものか?と考えていました。

将来的には、野球に携わる仕事がしたいが、
高校野球の監督ではなく、
トレーニングで選手の能力開発をしたいと思うようになっていったのです。

そして、ちょうど高校3年生になる1995年に、ある方の存在を知り、その人のようになろうと決めるのです。

それは、千葉ロッテマリーンズにコンディショニングコーチとして就任した『立花龍司』氏です。




1995年の千葉ロッテマリーンズは、
ボビー・バレンタインが監督として就任した年であり、ペナントレースでは2位に躍進します。

その影には立花龍司氏の存在は大きく、バレンタイン監督からの信頼も寄せられてチーム2位躍進に貢献しました。

立花氏は、1989年〜1993年に近鉄バファローズのコンディショニングコーチとして選手の指導、サポートをしていました。
1990年に近鉄へ入団した野茂英雄からの信頼も厚く、野茂の活躍にも貢献しました。

ところが、1993年に新監督に就任した鈴木啓二監督とは、反りがあわず、
特に、鈴木監督が科学的なトレーニングを真っ向から否定し、冷遇していたと言われています。

⇒鈴木啓二監督は、「草魂」という座右の銘を持ち、強い精神力で肉体の酷使に極限まで耐えるのがプロ野球選手のあるべき姿という信念を持ち、同一球団での通算317勝(日本プロ野球では最後の300勝投手)を記録した鈴木は、適度な休息を含めた合理性を重視する立花のトレーニング方法を支持せず、選手経験のない立花が選手を惑わせて自らのチーム管理権限を侵害していると捉えた。

1995年の千葉ロッテに就任したキャンプでは、立花氏が行う科学的トレーニングが注目され話題となります。

その立花氏の存在を知った時、衝撃が走りました。

「まさにこれやん、俺がしたいことて、これやん。」

「この仕事やったら、ずっと好きな野球に携われるやん」

と思い、立花氏のような、

『ストレングス&コンディショニングコーチ』

になると決めるのです。

前回、中學時代までのお話をしました。
 
今回は、
「周りの選手たちの潜在能力の高さに氣付く高校時代」のお話をしていきます。
 
 
まず、高校入學までの話にお付き合いください。

 
高校を受験する際、
やはり選手としてプロ(先はメジャー)を目指していたのもあり、強豪校で挑戦したいという強い思いがありました。
 
もちろん私學を志望していて、
当時は、東海大仰星高校に行きたかったんです。

なぜなら、東海大仰星は、清原・桑田がPL學園在校時、
夏の大阪大会決勝戦では、毎年のように対戦し、涙を飲んでいたんです。
 
その記憶もあり、また、東海大の縦縞のユニフォームを着たい思いもありました。
 ⇒昔は、府大会では白のユニフォームで、縦縞は全国に出てからとなっていた。

ところが、家庭の金銭的な事情も重なり、やむなく私學を断念せざるえなく、
公立高校の強豪校を目指すことにしました。
 

大阪での公立高校の強豪校というと、
当時から体育科のあった
桜宮高校が古豪として、名が通っており、
一般入試の前の二次試験(工業や商業、体育科などの専門科だけ)の受験をできたので、
まずそこを受けることにしたんです。
 
その二次試験はあえなく不合格となり、
一般入試でも受ける氣マンマンでいました。
 

ところが、親父の
 
「桜宮高校までは何かあった時に、行くまでに時間がかかる。
どちらかと言うと、行きやすい羽曳野高校(現:懐風館高校)を受験してくれへんか?」
 

(後に、親父は「そんなことは言うてへん」と言うてましたけどね・・・)
 

と言われ、泣く泣く羽曳野高校を受験しました。
 

桜宮も羽曳野もそう対して距離は変わらんのですが、
当時、自分の中で制限をかけてしまいましたね。
 
羽曳野高校は、もちろん合格をし入學しました。


【写真】羽曳野高校(現、懐風館高校)
 

そして、早速、野球部に入部し厳しい練習を期待していましたが、
期待していたような厳しい練習や指導環境でなく、
入部した当初は、辞めたい氣持ちも出ましたが、まずはやってみないとということで一念発起し、懸命に打ち込みました。
 
 
そして、入部して初めての遠征(初芝橋本高校)での試合の2試合目では、スタメンとして出場させてもらい、
初打席では、サード後方のフライがレフト前に落ちポテンヒットとなり、初安打を記録しました。
 
 
2年上の先輩達は、とても能力が高い選手が多く、
 
「こういう先輩達を越していかなあかんな」
 
と当時、感じていました。
 

2年上の先輩達は、夏の大阪大会では、4回戦進出。
当時4番に座っていた先輩は、猛打が爆発し、『甲子園への道』の速報でも名前が出るほどでした。



この年の夏の選手権では、星稜高校の松井秀喜が明徳義塾戦で、5打席連続敬遠をされた年です。


その松井秀喜が、星稜高校時代に行っていたトレーニングをある雑誌の記事で見て、真似てトレーニングをしていました。



その2年上の先輩達は、様々なタイプの選手がいて、
一人一人に秘めた高い潜在能力はあるが、
まだ、活かしきれていなかったり、
目醒めていなかったり、と
「もったいないな」とも感じていましたね。



私は、羽曳野高校に入學した時から、
下半身強化を目的に、
自宅~高校までの約15㎞(片道1時間程)を自転車で通學しており、
新チームになった夏からは、
通學途中にある藤井寺市民体育館のトレーニング場に通うようにもなります。


その、体育館のトレーニング場では、
ボディビルをしている方からトレーニングのフォームややり方を教えてもらったり、
上級トレーニーがやっているトレーニングを真似して行ったりと、
高校のトレーニング場ではできない様々なトレーニングもやるようになり、ウェイトトレーニングにはまるようにもなります。


私は、身体の線が細くパワー不足を補うためにウェイトトレーニングを取り組んでいました。


ただ、筋力がつきウェイトを上げれるようになったものの、敏捷性を失うということも経験し、やみくもにトレーニングをしてもダメだとも思うようになります。

しかし、敏捷性を高めるにはどうしてよいかは、この時はわからなかったですね。


高校1年時のこの時は、周りの選手達の潜在能力に氣付くものの、自身の能力アップに勤しんでいましたね。


トレーニングとしては、
ウェイトトレーニングをはじめ、
走り込みでは、坂道ダッシュや階段ダッシュ、タイヤを引いてのダッシュ、
そして、中距離走(3~6㎞)、
マスコットバットでの素振り、
日々のチャリ通を全力で漕ぐなど…。


今ならもっと効果的なトレーニングはあるのですが、
この当時は情報もないので、これが精一杯でしたね。


そうそう、特に、坂道ダッシュや階段ダッシュは好きでしたね。
今でも、急な坂や階段を見るとダッシュしたくなりますわ。


トレーニングをしていて、
走力が上がったり、パワーがついて飛距離が伸びたりと、トレーニングの効果は感じていました。



高校1年時は、まだ自分のことで全力でしたが、
高校2年の時にあることがきっかけで、
トレーナーという仕事を知ることになります。


この続きはまた次回に…。

 

いつもブログを読んでいただきありがとうございます。


私が、トレーナーになると決めた高校2年生の前に、原点がありました。


私は、小學生の時から野球が好きで、将来はプロ野球選手になるという夢を抱いていました。



その小學6年生(当時12歳)の時の1988年ソウルオリンピックがありました。



当時、野球は、まだ公開競技でしたが、日本は決勝戦まで進み、アメリカ代表と対戦することになります。



アメリカ代表には、

先天性右手欠損というハンディキャップを抱えプレイしたジム・アボット投手が在籍し、決勝の日本戦では先発し、完投。

アメリカ代表が初優勝し、金メダルを獲得しました。

 



 

当時、このアボット投手知った時は衝撃でしたが、彼をすごく尊敬し、憧れを抱きました。

 


その頃から、アメリカに行きたいという思いがあり、視点が海外思考(アメリカ思考)になっていきました。


 

そして、ジム・アボット投手に憧れを抱いていたのもあり、彼の通った大学に通いたいとも思いました。

 


そして、いつしかミシガン大學に入り、野球をして、メジャーリーグに入る夢を抱くようになりました。

 


とにかく、メジャーリーグにめちゃめちゃ興味が湧き、メジャーリーグの情報をどう集めたら良いかわからなかったですが、


中學時代、よく野球用品を買っていたスポーツ店(太陽スポーツ平野店)の若い店員さんとの出会いが、メジャーリーグを深く知るきっかけとなります。

 


当時、メジャーリーグの放送は、たまにBSでしか放送していなかったのですが、

その店員さんの自宅では、ちょうどBS放送を視聴できる状態だったので、

メジャーリーグの試合放送がある度に録画をしてもらい、当時のオールスターをはじめ、試合をよく観ていました。

 

 

メジャーリーグを観るようになってからなのか、自然とアメリカと日本のスポーツの違いに氣付き始めていきました。

 

 

アメリカのスポーツは、シーズン制のスポーツで、小さい時から複数のスポーツをすることが当たり前で、

1シーズンに3つも4つものスポーツを掛け持ち、どのスポーツからも大學からの推薦を受ける選手は多くいます

 

 

日本のスポーツの多くは、ほぼオールシーズンで取り組んでおり、

一人の選手が複数のスポーツをやったり、クラブに入ることはタブー視されています。

 

 

そんな環境に息苦しさを感じつつも、野球に打ち込んでいました。

 

 

また、あるきっかけで(確かあるテレビを観て)、ヨーロッパのスポーツ事情(特に陸上)の事を知り、

より日本のシステムに疑問を感じ始めていました。

 

 

「なんで、複数のスポーツをしたらあかんのやろか??」

 

 

「アメリカやヨーロッパでは当たり前のことなのに、日本はなんであかんのやろ??」

 

 

「一つのスポーツを専念し過ぎるあまり、世界で勝てる人材が育てへんのんちゃうか・・・??」

 

 

と、自然に思うようになっていきました。

 

 

私自身、もっと野球が上手くなりたかったので、野球以外のスポーツや遊びを積極的に行いました。

さらに独自に色々なトレーニングを実践していました。

 

 

とくかく野球が上手くなりたかった。

 

 

その一心で、普通にやってたら上手くはなれない。

 

 

ほな、アメリカやヨーロッパのようにたくさんの運動経験を積めばええんちゃうか??

 

 

ということで、全ては野球のために色々な取り組みをしてました。

 

 

とあるきっかけがあって、中學2年時に柔道を習いに町道場(加美道場)に

通いましたが、それも今の身体の土台となっています。

 

 

中学3年時には、ほぼ身長も伸びきっていたので(中学時代に約30㎝伸びた)、

ダンベルやバーベルを使ったトレーニングも行うようになりました。

 

 

身長があまり高い方ではなく、ガリガリやったんで、筋肉をつけたかったんです。

 

 

この頃に感じたこと、氣付いたことが今の考えのベースになっているのは言うまでもありません。

 

 

今、振り返っても、よくその違いに氣付いたもんやと思います。

 

 

お陰様で、これまで大きなケガもなく、オールラウンドの身体能力を身につけることが出来ています。

 

 

確かに、身体の強さに恵まれたのもあったとは思いますが、

あの時に様々な運動経験をしたからこそ、今があると言えますね。

 

 

小さいうちはとくかくたくさんの運動を経験することは重要です。

 

 

超一流のスポーツ選手は、小さい時は様々なスポーツやを経験しています。

 

 

その土台があるからこそ、伸びしろがあり、活躍できているんですよね。

 

 

 

 

 

シーズン制とは、

アメリカは各スポーツのシーズン(試合など)が決まっています。

 

例えば、

春は野球、夏は陸上、秋はバスケ、冬はアメフトです。

 

そのシーズンしかほぼ実施していない(試合がない)ので、当たり前のように

複数のスポーツを掛け持ちするんですよ。

 

 

この考えの背景には

 

ウィナー・テイクス・オール

(勝者が全てを得る)

 

というアメリカ特有の考えがあるためです。

 

 

※複数種目を取り組むメリットは…。

 

複数のスポーツを行うことでの

 

シナジー効果(相乗効果、共鳴効果)

 

が期待できます。

 

どういうことかというと、

 

1 + 1 = 3 にも 4 にもなる

 

というような効果のことです。