右手には音楽を 
左手には神さまの手を握り
歩いてきた音楽家がいました。




その軌跡を辿りたいと思います。




《高田三郎》




西欧には、沢山の作曲家がおられ、数えきれないほどの教会音楽をはじめ有名な作品がある中で、日本ではじめて「詩篇」に旋律をつけられ、日本語に翻訳された典礼聖歌に旋律をつけられた高田三郎氏。

明治5年(1872)日本の小学校の義務教育にはじめて五線譜、西洋音楽が取り入れるより遥か昔、四百余年前に、こうして日本にグレゴリオ聖歌が到来したのだった。しかし残念ながらこれらの灯はキリシタン弾圧と共に一旦は消えてしまう。その後、旧東京音楽校に、クラウス・スリングスハイム、ヘルムート・フェルマー、ハンス・シュヴィーガー、マンフレート・グルリット、ヨゼフ・ローゼンストック、レオニド・クロイツァなど、西洋音楽の巨匠たちの来日によって再び西洋音楽が輝く。外国人の教授たちが音楽学校で日本人の生徒に指導をはじめられ、そのころ高田先生は幸運にもそれらの巨匠から直接指導を受けられる生徒となられる。


横坂さんという方が、アメリカのエール大学の大学院の修士論文の中で、高田三郎作曲の『主の祈り』は『カゴメカゴメ』と同じ旋律であると分析している。

『主の祈り』から『カゴメカゴメ」は誰も想像しない。高田先生も気づかなかったと言われた







《児玉 麻里》




1963年に日本で初めてのハモンドオルガンやエレクトーンを使用した『第一回 YAMAHAリサイタル』に起用され
その後の日本にとってオルガンの音色が
広く伝わるようになる。

1966年に米国に渡り日本人初
シカゴ・ミュージックショーに出場をされ
米国・ミュージシャンユニオンの
メンバーシップをとり帰国した。

それをきっかけに世界から
招聘され演奏するようになり

国際オルガニストとして活動される。

現在では300都市の
オルガンフェスティバルに参加。
業績を伸ばし、その業績が認められ
1989年に外務大臣より
国際文化交流に努めた功績を表彰される

1991年より外務省、文化庁が後援
『IOFJ組織委員会』

(インターナショナル・オルガン・フェスティバル・イン・ジャパン)を立ち上げ

毎年1回、日本各地で開催し61カ国から
厳しい選定基準を満たした延べ
【73名】のオルガニストを招聘している。

児玉麻里氏は
フェスティバルのみならず

オルガン文化の貧しい日本において
日本各地のパイプオルガンの設置に幾つか尽力
オックスフォード学長やリスト音楽院学長
世界の代表する大学の学長らと共に励み

当時、設置されているパイプオルガンは
全国で30台数ほどであったが

2024年には約1000台の設置数がみられる。

これらの活動を通し
児玉麻里氏は

『すべては神さまのお導き。オルガンという神から授かった道具を使い、コンサートを手段とし、文化交流と国際親善を通じて、地球上の全人類の平和に寄与したいと、世界中に輪を広げていきたい』と言われている。







《フランツ・ヨーゼフ・ハイドン》




ウィーンのステファン寺院は威風堂々と
オーストリアの歴史と文化を語っている。

かつてこの聖堂で歌っていた少年
ハイドンに思いを馳せ祈る


"芸術家に囲まれて"


ハイドンの時代には多くの文豪や音楽家が輩出された。ハイドンが十二歳の時にヘルダー、十七歳の時にゲーテ、二十四歳の時にモーツァルト、二十七歳の時にシラー、三十八歳の時にベートーヴェン、五十歳でパガニーニ、六十一歳でベルリオーズ、六十五歳でシューベルト、六十七歳の時にメンデルスゾーンがそれぞれ生まれている。

なんらかの形でハイドンが
彼らに与えた影響は大きかった
に違いない。

ハイドンの出身地であるブルゲランド地方は
ドイツ、オーストリア、ハンガリー、クロアチアと
民族的に複雑な地だった。

ハプスブルク支配に反抗したハンガリーの農民戦争の時に、トルコ軍の侵略で、それまでに築いたハイドン家の財産は奪われ、一瞬にして貧乏のどん底におちた。


"神さまが贈った「貧乏」という宝"


ハイドンの屋根裏の生活は阪神大震災跡のように暖炉も窓も水道もガスもなかった。朝顔を洗う水を泉まで汲みに行き、部屋に帰ると水は氷の塊になっていた。その氷を手で溶かして顔を洗ったという。この貧乏という聖霊の贈り物のお陰で、ハイドンは芸術の世界に沈み、孤独の中から人々の魂に火を灯し、世界中の人々の心に、神のメッセージと喜びを伝える「音楽」を、数多く、すらすらと創造したのである。


その作品はおよそ

器楽曲一〇八、管弦楽曲
二十三、協奏曲七、弦楽曲八十三、弦楽三重奏曲二十一、ピアノ曲一〇〇、ミサ曲八、声楽曲一五〇、その他教会音楽や劇音楽など数えきれない。


ハイドンの自伝から

『全能なる神が、私に特別の音楽の才能を授けられたので私は、音楽をすらすらと創ることが出来た。』と
語られている。






《​ヨハン・セバスティアン・バッハ》




バッハは八人兄弟の末っ子として生まれる。

九歳のとき、音楽の仕事をしていた父親が亡くなると、ほとんど同時に母親も亡くなり孤児になってしまう。

神さまのご計画はここから始まる。


バッハは幼くして両親を失い

学歴は小学校も卒業していない。

もしバッハが両親にも恵まれ学歴にも恵まれ物質面も恵まれている人ならここまでの音楽家にはなっていない。

そしてバッハは家族の団欒に憧れるも

やがて四人の子どもに恵まれ
天国のような幸せな時間が過ぎた。

ある日、バッハが演奏旅行から帰宅すると最愛の妻の葬式が行われていた。残された四人の子どもを抱えたバッハは、宮廷楽士の仕事から帰ると燕尾服を脱ぎ、トースターも洗濯機もないなかで、子どもの食事、洗濯に明け暮れる日々だった。そんなやもめ暮らしを見かねた女性が二番目の妻となり、バッハを助ける。二人の妻との間に二十人の子どもを授かるが、そのうち十二人を亡くしている。

両親、妻、子どもたちと肉親の死別に接するたびに
バッハは「主に栄光」と唱えている。

「神も仏もあるものか」ではなく......。

それまで両親や妻、子どもたちを与えてくれた神に感謝し、この世のものは仮の姿、一瞬にして過ぎ去る現世から、永遠の神の世界に帰依していったバッハの生きざまを垣間見たとき、これがクリスチャンの姿なのかと私は感動に震えたものだった。


"バッハの音楽は永遠"


バッハの作品の多くは聖書が原点になっている。バッハの音楽を学ぶには、まず聖書から勉強しなければならない。バッハは四年間、毎週土曜日までに教会暦に沿った主日の礼拝のための音楽を作る仕事を依頼された。その音楽は「みことば」そのものだった。聖書と合体した音楽は、歌う者、聴く人々に神のメッセージを伝え、人々の心にキリストの言葉を述べ伝える手段となった。バッハの作品には、バッハのサインとして「主に栄光」と必ず記されている。

『マタイ受難曲』『ヨハネ黙示録」をはじめバッハの作品は、教会暦に沿って毎年、世界中で時計の針のようにぐるぐる回って、必然的に後世に伝えられている。それを耳にした人々は、知らず知らずのうちにバッハの音楽の中から「みことば」に出会い、その原点である聖書をひもとくことになる。


ベートーベンやシューマン、メンデルスゾーン、どんな音楽家もその名が音楽の楽音に置き換えられる人はいない。バッハこそは、神の啓示を受けた子羊だったのではないだろうか。




こちらの文章はIOFJの資料から一部

引用させていただいたもので

まだ発売日などは決まっておりませんが

本編は、今後発売する予定です。


それぞれの国

それぞれの文化

それぞれの人


音楽の捉え方もそれぞれ異なります。


その違いを皆さまと分かち合い

音楽で世界の光の輪を広げられたら幸いです。


本の発売が決まりましたら

こちらでご紹介させていただきますので

よろしくお願いします。


お読みいただきまして

ありがとうございました。