混合状態をおこしています。
非常に苦しいです。
昔のことを、やたら無駄に長く綴っています。
お暇でしたら、どうぞ。
削除も考えましたが、混合状態の記録として残しておきます。
油断していたら11月になってしまいました。
特に何がどう、というわけではないのですが、今年も残り2ヶ月ねぇ、メールで年賀状の案内も来たりして、とりあえず、ソワソワしてみたりするのでした。
大学を卒業したときは、今でいう就職氷河期でした。
希望していた児童相談所の募集が、どの自治体でもありません。
いくつかの区役所を回って途方にくれていたときのことです。
受付の女性が、児童厚生職なら、若干名募集しているから、人事課で聞いてみたらどうか、と教えてくれました。
児童厚生職? 聞いたことがありません。
人事課で聞いてみたら、児童館に若干名欠員が出来て補充する❗️とのラッキーなお話が。
早速、募集要項を貰ってきました。
まず、幼稚園教諭か教員免許を取得もしくは取得見込みであること。
お、教育実習が生きてきました。
あとは、細かく条件があったのですが忘れました。
試験は、一般教養、専門論述、面接、体力測定、健康診断と、最初数百人いたのが、バッサバッサと切り落とされていきます。
後にして思えば、体力測定や健康診断はもう、おまけのようなものだったのですが、役所は「内定」という通知がないので、四月一日、本庁舎二階の人事部前に集合❗️という連絡がきて、集まった新人同士で「これって、採用された、ってことかなぁ」と、半信半疑でした。
ちなみに、都庁の採用試験は、千人程が来ていて、最終的に、「採用名簿の11番に登録されました」と、わかったようなわからないような通知がきました。
まさか、両方うまくいくとは思っていなかったので、「どうすっかなぁ」なんて考えていたら、実家から「お前は、なんでもかんでも自分勝手にする。就職のことくらい、父親に相談しなさい❗️」ということで、肝臓を悪くして入院していた親父のところへ顔をだし「東京都と◯◯区役所、どうも両方採用されたみたいなんだけど、どっちにする?」なんて言ってみました。
当然、組織のでかい東京都、という返事がくると思っていたら、「東京都だと、何かの時にすぐに来れない可能性があるから、区役所にしてくれないか」と、予想外の答えが帰っていました。
自分でも、長生きはできないと覚悟していたのでしょう。
相談する❗️ということは、それに従う❗️ということです。
ま、大学も専攻も、じいさんや親父の反対を押しきって進学してしまったものですから(そんなところで勉強したって、就職なんか出来るわけがない❗️と言われました)、就職出来たじゃんか、という思いと、親父も年取ったなぁ、という複雑な心境でした。
区立の児童館は、一階が老人のデイサービス、二階三階屋上が児童館施設になっています。
区内の児童館は、ほぼこの作りでした。
人員は、というと、館長(一般職です)に児童厚生職が四名、用度(用務員職)が一名、計六名で構成されていました。
午前中は、乳幼児とお母さん、また、学校には行けなくなった中学生、午後は、小学生がメインで、日々、いろんなイベントを仕掛けたりして、飽きないように工夫を凝らします。
隣には、小さな児童公園が設置されていて、ジャングルジムなどがありました。
ジャングルジムって、降りる時に怪我をしたりします。
で、「降りる時には気を付けな❗️」と毎日言っていたら、そのうち
「のぼったら❗️」
ちびっ子が声をあわせて
「降りるときにはきをつけるっ❗️」
「よーし。じゃ遊んできな~」
なんて日々でした。
のぞんで入った職場です。
「天職とは、このことかぁ」と思っていました。
館内に併設された学童保育は、一年生から三年生、計40名が定員となっています。
役所も、せめて家庭のような雰囲気を、と考えたのでしょう。
他のフロアは絨毯張りになっていましたが、学童保育の専用の部屋だけは、畳敷きになっていました。
役所の業務ですから、月謝という利用料は無料です。
毎月、一人あたりいくら、という感じでおやつ代も支給されます。
子どもにとって「おやつ」はお楽しみでもあります。
単純に、お菓子を買ってきて、では、子どもたちも私たちも楽しくありません。
また、アトピーの子どもにとって、みんなと違うものばかり、というのは悲しいものです。
ですから、基本、手作り。
仕込みに時間はかかってしまいますが、そのぶん、喜んでくれます。
たとえば、おでん❗️
40人分ですから、大鍋二つで作ります。
もちろん、ゆで卵(子どもは大好きです)も入れますが、アトピーの子どもでも大丈夫なように、大量の大根を煮込みます。
学校から児童館に帰ってきた学童保育の子どもたちが、「ねぇ、きょうのおやつなーにー?」「今日はねぇ、スペシャルおでん❗️」なーんて言っては、笑っていました。
まぁ、おでんに限らず、すいとんを作ってみたり、お好み焼きを焼いてみたり、夏場は、今日は公園で「スーパーきゅうり」(きゅうりの皮をざっくり剥いて、お味噌を用意したものだけですが)なんて、名付けると、野菜嫌いな子どもも、きゅうり一本を握りしめて、よく食べてくれました。
お誕生会も、当たり前ですが毎月やりました。
地域のパン屋さんが、特別に1個100円で用意してくれます。
「いつもすいませんねぇ」というと
「昔は、うちの子どもたちも学童のお世話になってたからさっ」なんて言ってもらって、甘えさせていただきました。
手作りのお誕生カード(写真つき)を用意して、お誕生日の子どもは40個のケーキの中から、好きなものを選びます。
で、ハッピバースデーを歌ってからの、おやつになるのでした。
お誕生カードの写真は、お母さん方に好評で、あと二枚焼いてください❗️といわれたら、ネガから写真を探しだし、実費をいただき、焼き増しして渡していました。
今思うと不思議ですが、カメラはボーナスをはたいて、キャノンのイオスを自腹で買いました。
フィルムも現像も、全て自腹で、今にして思えば、フィルム代、現像代は雑費処理してくれたんだろうなぁ、と思います。
ただ、当時は毎日が楽しくて、そんなことさえ気がつきませんでした。
不思議なことに、毎日みていると、帰ってきた子どもの顔を見ると、熱っぽいかどうか、わかります。
「おかえり~」
「ただいま~」
「ちょっとこっちにおいで」
で、額に手を当てます。
うーん。ちょいと熱っぽいか。なんて時には、「隣の部屋(職員室です)で、熱を測ってもらいな」と、なります。
37度代なら、様子をみながら遊ばせます。
なぜか、おでこに手を当てて熱をはかる、というのが子どもたちにとって嬉しいらしく、「ねぇ、私は?」とか「僕は?」なんて寄ってきます。
その都度「うーん。六度五分❗️元気にあそんどいで」とか「そうだねぇ。六度七分❗️手をよく洗っておきな」なんて、謎の答えをしていました。
働いているお母さんに電話を入れるのは、38度代になった時です。
怪我をすることだってあります。
保険証のコピーは、預かっていますので、提携している医院へ、自転車の後ろに乗せて向かったりもします。
「ありゃ、捻挫しちゃったね」と言われたら、お母さんに連絡をして、迎えに来てもらうか、児童館の閉館時間まで預かるか、の相談をします。
フルタイムで働いているお母さんです。
よほどのことがない限り、仕事を途中で終わりにし、なんてことは、極力避けたいと思っていました。
一方、いろいろとしでかしてくれるのが、学童保育の年齢です。
学校で問題があると、児童館に苦情がきます。
で、なぜか学童保育の担当が、学校に謝りにいくんですが。
悪ガキ三人(これが、かわいいんですが)校庭の真ん中でうんちをし、裏庭でうんちをし、校門の横でうんちをし、ってなことがありました。
教頭先生は、お怒りです。
なんと、現場保存もしてあります。
「学童保育でのしつけがなっていない。しっかり注意するように❗️」と言われ、謝って帰ってきました。
それにしても、一年生三人組が、あっちでプリっ、こっちでプリっと、うんちをして回る姿を想像しただけで、笑えてきます。
まぁ、それでもとりあえずは叱らなければなりません。
三人を職員室に呼んで、注意する前から笑いそうになってしまいます。
それでもなんとか「うんちをしたら紙で拭くっ。じゃないと、犬と一緒でしょうがっ」
もう、可笑しくて我慢ができません。
他の職員が、「あら~、そこの三人はワンちゃんになっちゃったの?」
もう、限界です。
子どもたちに背中を向けて、ピクピクしてしまいました。
二月の風が吹く中で、裸で遊んでいる一年生がいました。
「そんなかっこうじゃ、寒いのがわからないのっ❗️」といったら「習ってないからわからない」といわれた時には、我慢が出来ず爆笑してしまいました。
最初ベソをかいていた子どもも、こちらが笑うと一緒になって笑います。
「じゃ、教えたからね❗️」
「何がわかった?」
「うー、ろうかははしっちゃいけませんっ」
もう、風邪を引かなきゃそれでよし❗️です。
保育園から、小学校に上がりたての頃は、遊ぶのに夢中で、トイレに行きたい、というのを忘れてしまいます。
ですから、おもらしなど日常茶飯事。
なかには、うんちを漏らす子どももいます。
子どもたちの大好きな三つの言葉「うんこ、しっこ、ちんこ」の第一位です。
もう、子どもたちは感情が高まってしまいます。
それこそ、小躍りしながら「うんこ」の大合唱です。
なかには、本人もつられて「うんこ❗️」なーんて喜んだりもします。
「これこれ、喜ばないの❗️」なーんて言いながら始末をして、変えパンツを履かせてなんていうこともたまにありました。
児童館の一大イベントは二泊三日のキャンプでした。
キャンプ中も、児童館と学童保育は通常通り開館していますので、大学生四名をアルバイトとして、応援に頼みます。
さすがに、小学校三年生以上40名ですが、職員も三名キャンプに行きますので、学童保育出身の六年生の女の子に学童保育の手伝いを頼みます。
お礼に、職員室で紅茶などを振る舞い、ケーキなどをご馳走します。
「大丈夫だから、まかせといて❗️」なんて言ってくれて、一年生二年生の面倒をみてくれていました。
キャンプ場は、秩父のキャンプ場を利用させてもらいました。
事前に、危険なところ、食料の運搬ルート、バンガローの数など、1日かけて点検します。
大抵のキャンプ場には川が流れていたので、万が一、夜中に寝ぼけてバンガローを抜け出すことも考えて、私と大学生1名は、夜通し焚き火をたきながら寝ずに当番していました。
それでも、寝ぼけてバンガローを抜け出して、別のバンガローで寝てしまい、大騒ぎになったことなどもありましたから、油断大敵なのです。
ちなみに、参加費は、往復の電車代。それに加えて、飯盒でご飯を炊く回数分のお米です。
現地調達した食料とアルバイト代は、役所が負担となっていました。
キャンプ中は、いろいろとプログラムを組んで、普段では味わえないような経験をしてもらうようにしていました。
写真は、アルバイトの学生に頼んで、好きなだけ撮ってもらい、後から、お母さん方が、貼り出した写真を見て注文してくれるようにしておきました。
まだ、ビデオがなかった時代です。
当時ビデオカメラがあったら、帰ってきてからどんなに楽しかったか、と思います。
まぁ、キャンプの思いではつきないので。
児童館の午前中は、乳幼児が中心と書きましたが、毎週、講師を呼んでリトミックを開催していました。
通常なら、月額数千円かかるリトミックですが、役所の事業ですので、かかる費用は名札代40円のみでした。
ですから、朝の6時前には、お母さん方が行列しています。
最初、なんでこんなに熱心なのかが謎でしたが、普通は月謝がかかる、と聞いてなるほどなぁ、と納得しました。
職員もリトミックには参加しなければならないのですが、もう、お母さん方は大胆そのものです。
ミニスカートでヘビ柄のストッキングを履いて、足パッカーンです。
さすがに、居心地が悪く、館長に「どうもリトミックだけは勘弁してほしい」と、直訴しました。
館長も、様子を知っていてくれたのでしょう。
「無料しないでいいからさ❗️」と言ってくれて、リトミックの参加は免除してくれました。
乳幼児の子育ては、ストレスがあるものです。
ですから、「お母さんの手芸教室」などを週に数回開いては、その間図書室で乳幼児を預り、絵本などの読み聞かせや手遊びなどで、二時間弱は、お母さんのフリータイムにしていました。
中には、ダッコ紐ごと赤ちゃんを預けるお母さんもいたりして、その時は、トレーナーとジャージの上下に赤ちゃんをダッコして、本を読み聞かせ、なーんて、今にして思えば、なんでだろ? なんてことも日常茶飯事でした。
好きで入った仕事です。
毎日が楽しくて、こらで給料もらっちゃ申し訳ないなぁ、と真剣に考えていました。
不満といえば、「あまりにも年休を取らなすぎる」と、児童課から「計画的に年休を消化するように❗️」と指導が入ったことと、日曜日が閉館(まぁ、役所の出先ですから仕方ないのですが)していて、子どもが遊びにこれない❗️っていうことでしょうか。
夜中に家出した兄妹が児童館に忍び込んで警備会社から呼び出され、遅い夕食をラーメン屋でご馳走して、なんとか家に帰らせたり、夫のDVから逃げてきたお母さんがその夜の食事代もなくて、館長が本庁にかけあって、緊急保護のお金を出してもらったり、もろもろいろんなことがありました。
一番ややこしかったのが、知的障害を持つお母さんが、ある日実家に子どもを連れて帰ってきて、また、フラッといなくなってしまった。
途方にくれている、という相談があった時です。
最初、生年月日も不祥、もしかしたら戸籍の届け出もしていないかもしれない、という児童相談所の案件でした。
子どもを見てみると、小学生でもおかしくない年頃です。
おばあさんに児童館にきてもらい、話をしているなかで、なんとか戸籍は取れていて、小学生に該当することがわかりました。
児童相談所だって、山のような案件を抱えていることは知っています。
ベストな答えはわかりませんでしたが、ベターな答えは、とりあえず小学校にいく手続きをおばあさんにとってもらう。
同時に、生活保護の申請をしてもらい、行方不明のお母さんに変わって、子育てをしてもらう。
学校が終わったら、学童保育(定員1名オーバーでしたが)で夕方までは預かる、ということで、無事に入学もでき、三年間学童保育に通ってきていました。
こういった、ややこしい問題になると、館長の姿勢次第になります。
それは児童館の守備範囲ではないから、と言われてしまえばそれまでです。
それでも、なにか方法があるのなら、と考えてくれる館長でした。
転勤して、別の児童館に勤務するまでは
、それが当たり前だと思っていました。
上司の気持ちひとつで、現場はかわるもんだなぁ、と実感したのも事実です。
そんなめくるめく刺激に満ちた生活も、親父の肝硬変による食道大動脈瘤の破裂で、あっけなく終わりをつげるのでした。