卒業などが重なったため更新がかなり遅くなってしまいました。
申し訳ないですm(__)m

では関ヶ原直前まで書きたいと思います。

三成が挙兵したとき、家康は小山(現栃木県)というところにいました。
家康は三成の挙兵をよんでいてゆっくり、ゆっくりと東海道を移動していたのです。

さて、家康率いる上杉征伐軍には豊臣に恩がある大名が多くを占めていました。
しかし関ヶ原に到着したとき、真田昌幸とあと1人(名前を忘れてしまいました…思い出したら編集します。)
以外東軍に味方するという結果になりました。
なぜこのような結果になったのか?
それは家康と親交があった黒田長政が福島正則を説得したのです。
あれ?福島さんだけでいいの?と思われると思いますが、東軍に味方すべきか悩んでいた大名たちは豊臣と繋がりが深い福島正則が味方することを宣言したことによって決心し、ほとんどの大名たちが東軍に味方するという結果になったわけです。

しかしこのとき、長政の父 黒田孝高は自家の金蔵を解放し、浪人を集め九州を統一すべく立ち上がっていたのです。
関ヶ原の戦いが終わった頃は孝高は島津を除いた九州のほとんどを席巻しあわよくば西上し、家康と対決しようとしていました。
ようするに長政が説得しなければ歴史は絶対に変わっていたのです。
父は家康と決戦しようとし、息子は家康の味方として黒田家を生き残ろさせようとしてました。
父と息子の見解は逆だったんですね、皮肉なものです。