徳川家の天下を確立させた天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いですが
今回はなぜ西軍が負けてしまったかについて書きたいと思います。
よくご存じのかたには常識かもしれませんが…汗

まず関ヶ原の戦い以前の状況について説明したいとおもいます。
まず秀吉死後の家康の動きですが遺言で禁止されていた諸大名との婚姻をしてつながりを深めていました。
それと同時に自らに反抗すると思われる大名の力を弱めていってました。
例えば利家死後の前田家に対して謀反の疑いがあると言いがかりをつけて利家の妻であるお松の方を人質にとり、
五奉行筆頭である石田三成の五奉行職を解かせたりしました。
ついには上杉家に対しても謀反の疑いをかけたのです。

これの動きを好機と三成は上杉家の重臣である直江兼続と連絡をとり、家康を挟撃するという策を立てました。(直接会って話はしなかっただろうと思いますが何かしらの方法で連絡を取り合っていたと思います)
そして家康が会津征伐に向かい、宇都宮あたりに到着したあたりに三成は挟撃すべしと挙兵したのです。
次回は関ヶ原直後まで書きたいと思います