●8/23 水曜日
朝、チビを起こし、朝食を食べさせて、身支度を済ませました。
心は沈んでいましたが、普通の朝の風景とさほど変わりませんでした。
●8:30にS病院に到着。
病室に入ると奥さんは昨夜からまったく同じ格好で安らかに目を閉じていました。
どこに触れても身体は冷たくなっていました。
奥さんの死は夢じゃなく現実なんだなと凹みました。
●奥さんのお父さんとお姉さん、そして隣県から駆けつけてくれたお兄さんも病室に到着。
「普通に眠っているみたいだね。」ドラマや漫画で言いそうなセリフをお姉さんが言われました。
ほんと、その通りです。
●9:30、緩和ケア病棟の大きなホールに移動。
緩和ケア病棟の全スタッフさんが集まり、ちょっとしたお別れ会。
スタッフさんがチビに労いの言葉をかけてくださいました。
そして、主治医の先生が奥さんにお疲れ様でしたと声かけしてくださいました。
スタッフのほとんどの方が泣いてくださいました。
常に人の死に接しているであろう緩和ケアのスタッフの皆さんもこんなに泣くんだなぁ。と思いつつ、僕ももらい泣き。
●その後、奥さんは葬儀屋さんが用意した車に乗って移動。
緩和ケア病棟のスタッフさん全員が玄関にズラリと並んでお見送りしてくださいました。
最後の最後までS病院の緩和ケア病棟の皆さんの対応には感動を覚え、感謝しかありませんでしたね。
奥さんの最期をS病院の緩和ケア病棟にお任せしたのは本当に良い選択だったと思います。
●斎場に向かう途中、ドライバーさんに無理をお願いして、我が家に寄ってもらいました。
家の中に入ることはできませんでしたし、ほんの数十秒でしたが、奥さんを家の前まで連れて帰ることができました。
2人で建てた大好きな家。
奥さんはリビングの設計をしました。(ちなみに僕はお食事処の設計)
生きて一時帰宅が叶わず無念です。
●斎場へ到着。
家族控え室に安置された奥さん。
久しぶりに畳の上で眠ってます。
●斎場の担当スタッフのFさん、キビキビした男性の方でとても気持ちの良い方でした。
ちなみに奥さんと同じ歳だそうです。
また、斎場の責任者の方、1年半前に斎場の見学会に来た我々の事をよく覚えていてくださいました。当時、余命宣告を受けた38歳の奥さんが終活している姿はものすごいインパクトがあったそうです。
●斎場のスタッフさんと葬儀等の打ち合わせ。
ここで役に立ったのが、奥さんが残してくれた「エンディングノート」と斎場の見学会の時にざっくりと内容を決めていた「見積書」でした。
奥さんの葬儀の希望は、
→コロナ禍が続いていたら、家族葬でこじんまりとした葬儀にして欲しい
→コロナが落ち着いていたら、多くの人に参加してもらう葬儀にして欲しい
とエンディングノートに書かれていました。
●奥さんの希望を最大限に汲み取り、
8/24(木)お別れ会(通夜無し、法要無し)
8/25(金)家族葬
という流れにしました。
お別れ会は盛大に行うため、16〜20時の4時間を出入りフリーにして会場を開放することになりました。お別れ会では一切の法要は無しとし、無宗教モードにしました。
また、これは僕の意向ですが、御香典は一切受け取らないという事にしました。その代わり、奥さんの好きだったお花は受け付けますということにしました。
●終活の時に葬儀のプランを既に決め、見積もりまでしてもらっているのでとても助かりました。
また、一番助かったのは遺影の写真を奥さん自身が決めてくれていたことです。
当時の奥さんの気持ちは複雑だったとは思いますが、残されたものにとってこんなに助かることはありません。
奥さんに感謝です!
●ちなみに遺影の写真、奥さんは「脳腫瘍になって以降の写真は絶対に嫌」と言って、4年前の旅行先の居酒屋で満面の笑みでご機嫌な時の写真を選んでいました。
こんなに満面の笑みの遺影、一般的には使われないだろうなと思うくらい満面の笑み(大爆笑しているくらいの笑顔)です。
奥さんらしいなぁと思います。
●奥さんの関係者の皆様に中心にメールや電話にてお別れ会の開催連絡をしました。
奥さんのスマホが久しぶりに役立ちました。
斎場には次々と問い合わせの連絡が入ってきたらしく、斎場のスタッフの皆さんがドタバタされていました。(翌日、ものすごいことになりました)
●この日、僕とチビは早めに家に帰り、お別れ会に向けての準備。
展示する写真や、思い出の品の用意。
お別れ会に参加してくれる皆様へのメッセージや、奥さんの年表、病気の経緯などをパソコンで作成しました。
写真はスライドショーに使うため、我が家の撮り溜めた写真データー2万枚から、奥さんの写りの良いものを3500枚ほどピックアップしました。
準備が整ったのは深夜。
僕、連日の寝不足です。
人が亡くなった時、喪主は忙しくて悲しんでいる暇なんか無いとよく聞きますが、ほんとその通りだなと思いました。