びわ湖の神々の山 大日山とびわ湖治水施設
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大日山入口
ぼくの住んでいるところは、びわ湖の守り神とも言うべき大日山の近くです。
山と言っても、滋賀県で一番低い山で、いつもワンコと山頂まで散歩に行きます。

階段


大日山裏口
林と参道は、きれいに整備されています。数年に一度は、手入れされている感じです。
どなたがされているのかは知りません。

大日山の神々
指輪物語の木の鬚みたいな神々が沢山おわします。






夏は、ワンコに虫がつくと面倒なので通りませんが、秋以降は、この山を越えて瀬田川に抜けたりします。

山道は、誰かが通っとかないと、すぐ消えて無くなります。
そんなことで、よく通るのですが、人と出会ったことはありません。ほんと、一度もない。
そんな山で去年であったのが、ニホンザルの群れ。10匹程かなぁ・・・。比較的若かった。
だから、昨年は、こちらはワンコを連れていることもあり、通りませんでした。
こないだの日曜日に通った限りでは猿はいませんでした。
人があんまり通らないと、サルも居着いてしまうことがあると思います。
住宅地を猿が徘徊すると、そこいらじゅうのワンコが一斉に鳴き出すので、迷惑千万です。
野生のニホンザルは、見かけによらず大変危険な動物です。
噛まれたりすると大変なことになります。犬などの比でなありません。
肉ごと食いちぎる噛み方をします。指くらいは、簡単に持ってかれるでしょう。
イノシシも大変危険です。子供のあいだでの伝説では、イノシシは曲がれないと言うことになっていますが、
大間違いです。自由自在に曲がります。サルと一緒で、雄はデカくて恐い。
木に登れば大丈夫という伝説もありますが、大丈夫ではありません。1m以上は、ジャンプします。
木に登るなら、余程高く登らないと安心できません。
これは、死ぬほど恐い経験をした実体験に基づいた話です。
あと、里山には行って、地面に直径15~30cmくらい、深さ10~20cmくらいの穴があったら、
あなたは、イノシシの縄張りに入ってます。注意しましょう。
・・・って、里山入った段階で、あなたは、自分がインベーダーであることを自覚してください。
日本の野生の獣は、向こうから攻撃してくることは、あまりないようですが、
雄は、脅かすとパニックを起こし、めっちゃ凶暴になることがあります。
里山には、結構、野生の獣がいますので、声を出したりして、
出来るだけこちらの存在を知らせて歩くようにすると、
無用な諍いを避けることが出来ます。
今西教授の棲み分け理論は、学問的にはどうか知りませんが、倫理的には有効な指標になると思います。
・・・・って、今までの話とどう繋がっているのかは・・・・謎です。(^_^;)
大日山
滋賀県内の山と呼ばれる山は227山あり、その中で大日山は標高129メートルで、227位にあります。
所在地は大津市黒津町。南郷洗堰の北300メートルにあり、瀬田川に突出した山で、名前の由来は、奈良時代の僧行基がこの山全体を大日如来の姿とみなし、山頂部の自然石に頭を彫ったことによると言われている。
山頂部に大日寺という大日堂があり、荒神の祠があることから荒神山とも呼ばれる。山頂付近に立地する古墳群の存在が近年に確認され、瀬田川流域に位置する中小首長墓として重視され、近江の国の古代史を語る上でも重要な山であります。瀬田川に突出した山で、瀬田川の排水作用の障害となってきました。
琵琶湖には、一級河川だけで120本の河川が流入しています。流出する河川は瀬田川1本だけです。 この瀬田川は黒津付近で、大日山により、また周辺河川から流入する土砂が堆積することで、著しく疎通能力が低下して、このため流域に大雨が降ると、琵琶湖の水位が上昇し、湖岸の地域は湖の洪水の被害に悩まされ続けて来ました。
その一方で、治水の努力も重ねられ、古くは奈良時代の僧行基は、琵琶湖の洪水を防ぐには瀬田川を開削して湖水の流れを良くするしかないと考え、川中に飛び出た大日山を切り取ろうとしました。
しかし、それによって下流に氾濫が起こることを恐れ、工事を断念しました。
その際、行基は山頂に大日如来を祀り、山の破壊をいさめることを目的としたといわれている。今後この山を切り取ろうとすれば祟りがあるとの言い伝えを残したため、明治になるまで大日山に手をつける者はいませんでした。
瀬田川の黒津の所に、堆積の結果生まれた古来「黒津八島」と呼ばれる島々、すなわち、彦九郎島、大島、道万島、かうとう島、高島、上の島、小島、しめの原島、があり、大日山はこれらをしたがえ、瀬田川を守護する神として人々の信仰を集めたと言われています。
江戸時代には、湖岸住民から瀬田川の川浚えの請願が何度も出されていたようですが、当時の幕府はなかなかこれを認めなかったようです。
これには、次のような理由がかんがえられています。
1)浅瀬が京都出兵時渡河地点として軍事上重要であった。(供御瀬)
2)水位の低下により膳所城や彦根城の防備が低下する。
3)下流とくに大阪の商人が、洪水や土砂の流出を懸念し強く反対した。
しかし、流域住民の要請は強く、幕府も寛文十年(1670)から天保二年(1831)の161年の間に、5回の川浚えを許可しており、このうち天保二年の川浚えがもっとも規模が大きかったとされています。
そのうち、元禄12年(1699)の普請では、河村瑞賢が工事の指揮をとりました。
瑞賢は、現在の瀬田橋から旧洗堰までの東岸を切り取ると共に、黒津八島の州を崩して2つの島とし、通水を良くしました。工費は幕府が一時立て替えた後、周辺の村々に3年の年賦で割り当てられました。
明治に入っても何度か水害が発生していますが、明治18年6月には鳥居川量水標の水位がプラス2.71メートルに達し、大きな被害が発生しました。
このため、湖岸住民は繰返し瀬田川浚渫の陳情を行いましたが、下流住民も洪水の被害を受けたことから猛反対をしたため、一時は上下流の対立がきわめて険悪な状態になりました。
さらに、明治29年(1896)9月には、4日から、12日の間に1008ミリメートルの雨が降り、鳥居川の水位が最高3.71メートルに達する大水害が発生しています。
そこで、内務省では明治34年(1901〉奈良時代に行基が断念して以来、手つかずだった大日山が初めて切り取られ、瀬田川の流れが増大します。
さらに、瀬田川を浚渫するとともに水位調節のための洗堰を設けることにし、明治38年に南郷洗堰が完成。堰はレンガ造りで、開閉は人力だったが、当時としては画期的でありました。
伝説ところで、大日山の南側山腹には、「乳の池」と呼ばれる約2m四方の小さな池がある。夏の旱魃にも水の絶えることはないといい、、乳の出の悪い女性が大日寺に参りこの池の水をもらって帰ると乳の出がよくなると伝えられています。
琵琶湖歴史倶楽部 05/05/22「第2回歴史を語る会 大日山・太神山と大戸川の歴史を探る」
2010/03/21 09:00~

大戸川沿いのくさばな。




大戸川黒津橋から南。この先で瀬田川と合流。フェンスは水産センター。
この道は、徒歩ならグルッと一周できようになりました。

南郷水産センター 桜が沢山あるので、子供連れのお花見に最適!・・・でも、ワンコは駄目。
だから、ぼくと『くろ』くんは、コンビニでおにぎりとCANチューハイ買ってフェンスの外側の瀬田川のよりで、お花見をします。

水産センター桜のつぼみ
現在の洗堰
堰を近代化し機能を強化するべく、建設省(現・国土交通省)近畿地方建設局が在来堰の直下流にコンクリート製の可動堰を建設し1961年(昭和36年)3月、疎通能力600m3の堰が竣工した。なお、堰の開閉は電動に変更された。
1992年(平成4年)、バイパス水路が新設され、疎通能力が800m3に向上した。

南郷洗堰下流

南郷洗堰上流

南郷洗堰バイパス水路
明治の洗堰
1896年(明治29年)にまとまった淀川改修計画により1900年(明治33年)春、瀬田川改修工事が着工した。これは、瀬田の唐橋から南郷までの5.5km区間にわたる川底を掘り下げるほか川幅を101mに広げ、さらに南郷付近(供御瀬の直前)に川中へ突き出した大日山をダイナマイトで爆破し54mを河川敷に組み入れるというもので、これにより瀬田川の疎通能力は毎秒50m3から毎秒200m3に拡大[1]した。
洗堰本体は1902年(明治35年)に着工し1905年(明治38年)3月、煉瓦と石で造られた疎通能力は毎秒400m3の堰が工費625,000円で完成した。堰の開閉は複数の橋脚に角材を横に人力ではめる方法を採っており、全開から全閉までの作業に24時間以上かかった。

旧洗堰堰東

旧洗堰堰西

黄砂まみれの愛車・・・ド・ノーマル。パッドとショックのみ交換。
音楽環境:ヘッド=ナカミチ、アンプ=サンスイ*2、スピーカ=ケンウッド。
うちの柿
うちの梨
うちの桃