星勝夫
横浜市の株式会社星さんは、神奈川県というより広く東日本を地盤とされてきた銘木問屋さんです。 最近は銘木のほか建材と住宅機器にも重点を置き、大きな成果をあげておられます。 2年前には、中区から金沢区の木材団地に本社を移されました。 元の本社は繁華街にあり、近くに地下鉄の駅ができるなど、作業や管理面でいろいろな不便がでてきたためです。 ノダ製品はノダハウスキットを中心に、扱い量を急速に伸ばしたおられます。 ― ㈱星さんは老舗の銘木問屋として知られていますが、いつ頃、創業されたんですか。星さん: 戦前は、東京の篠田銘木店さんの支店だったんです。 その時に、ノダさんのベニアも扱っていました。 父親は オートバイが好きで、小さな荷台のついたオートバイで配達していました。 ベニア板を積んで、その上にいろいろなものをのせたりしましてね。 僕らが4~5才の頃でした。 倉庫の中で遊んでいて、誰かが縄でしばったベニアの下敷きになったというような思い出もあります。 店は、昭和2年からやっていました。 ― そうしますと、戦後、星銘木店さんに変わられたわけですか。 星さん: 戦争中に木材統制令が布かれて、個人営業ができなくなりましたね。 その時に父親がすべてを精算して、本店というか篠田銘木店さんに全部お返ししたんです。 自分は神奈川県の地木社に入ったところ、昭和20年の5月29日に空襲があって横浜が焼けてしまいました。 そのあと、8月に終戦になったわけですが、篠田さんも「もう、あそこでは商売しない」といわれるので、中区にあった元の場所を譲り受けてボチボチはじめたんです。 戦災の復興にはまず木材ですから、初めは銘木というより木材を扱いました。 秋田とか、山元にキャッシュを持っていって貨車で買い、それを売ると、また買いに行くという形でね。 ― 銘木をはじめられたのは、いつ頃ですか。 星さん: そのうちに、郊外に焼け残っていた磨き丸太とかを持ってくる人がいたり、昔の関係で山との取引きもはじまりまし た。 焼け跡はバラックでしたが郊外の方には良い家ができるようになって、また銘木店に戻ったわけです。 ベニアなども、割と早くから扱いましたね。 ― その頃は、個人営業だったわけですか。 星さん: そうです。 昭和21年から個人営業をはじめ、落ち着いてきたところで昭和25年に合資会社星銘木店にしました。 それから銘木もボツボツ売れるようになり、木材も相変わらずやっていましたが、昭和35年には木材を分離して株式会社星木材部という別会社にしました。 その時から、星銘木店は銘木と建材でやってきたんです。 ― 現在の社名に変わられたのは・・・・・。 星さん: 昭和42年です。 銘木とか木材にこだわらないで、これからはいろいろなことをやろうということで株式会社星にしました。 20年近くも前のことですから㈱星という名称にすることには反対もありましたが、今ではこうした社名は 一種の流行になっていますね。 ― 木材部の方は、別会社のままですか。 星さん: 木材部も㈱星にまとめましたが、銘木のお客さんである材木店さんとのかね合いもあるのでやめて、銘木と建材、住宅機器を重点的にやっていこうということにしています。 そういうことで、早くから建材や住宅機器を扱っていたんですが、ついつい銘木が主体だったもので建材関係がなかなか伸びなかったということです。 ― 昭和42年といいますと、まだ建材類も少なかった頃ですね。 星さん: ベニアとか木毛セメント板、突き板合板、プリント合板などがありましたか。 当時、マルシンさんにも誘われていたんですが、それだけの態勢もないうえ取引きしているメーカーさんとの関係もありましてね。 ― マルシンさんのグループに入られたのは、昭和57年ですか。 星さん: 57年の秋に、入りました。 息子も昭和55年に学校を出て岡山の野崎住建さんに、勉強にいっていたんです。野崎住建さんも銘木からはじまって、建材や住宅機器を手広くやっておられます。 そこで、社長さんにお願いして55年から2年間、勉強させて頂いたわけです。 これからは銘木だけではやっていけないし、「建材や住機にも力を入れていこう。 ちょうど、息子も帰ってくる。 この機会に加入させて頂きたい」ということで参加したわけです。 そのあと、すぐに息子も帰ってきました。 タイミングも、良かったんですね。 ― ノダ製品とは、その時からのおつきあいでしたね。 星さん: 初めは、ノダラスカットとか押入中段ユニットが主体でした。 そのあと、ノダハウスキットとかフロアとか、いろいろな新しい商品が出てきましたね。 いまでは、ノダハウスキットやフロア、クローゼット、下駄箱など全般的に扱っています。 ― 新しい商品が出るたびに、扱い量も増えるという形ですか。 星さん: そうですね。 とくにフロアが出たときに、扱いも大きくなりました。 ノダハウスキットにフロアも加わると、だいぶ金額も増えますからね。 ノダハウスキットには、いろいろな商品が付随して出てきますから、将来も期待できます。 施主さんにノダハウスキットの造作材をお見せしたら「うん、これがいい」と即座に決まったという話しもありますよ。 ― ノダ製品の評判は、いかがですか。 星さん: マルシン・グループに入って3年になりますが、ようやく地盤ができてきたというところです。 まだ、積極的な売り込みはしていませんし、これからはかなり期待できると思います。 初めは何でも扱っていましたが、今ではノダさんを含めて3社の製品をメインにしています。 なかでもノダさんは全面的に後押しをしてくれますし、心強いですね。 ― 話しは変わりますが、㈱星さんの社員は、昔からお若い方が揃っているようですね。 星さん: 先代からの社員も、段々と代変わりして、今ではほとんど若返りました。 毎年、採用していますからね。 社員は、いま35名です。 ― 社長さんが、いつも社員にいっておられる言葉はありますか。 星さん: とくにありませんが、一つは細かな気づかいというか、配慮ですね。 それと、元気がなければ駄目だということです。 朝礼のときも「誰かが挨拶するだろう」と思って声を出さないのは、依頼心の固まりです。 それは、その時点に同業者に負けていることになるわけです。 そこで、朝から元気に挨拶して「今日は、やるんだ」という意気込みを持つようにいっています。 ― それは簡単なことのようで、なかなかむずかしいかも知れませんね。 星さん: われわれが率先して動くということも必要ですね。 ですから、僕らも会社の始まる前には全員が揃っています。 外の仕事がないときは、最後まで会社にいるようにしています。 うるさくいうよりは、実行ですね。 あとは、稼げば稼いだだけ、社員にも利益配分をすることです。 ここ何年かは良くなかったですが、今年は出足がいいですね。 ― 今年の出足がいいのは、何か理由があるのですか。 星さん: そうですね。 建材や住宅機器もかなり伸びていますが、銘木にこだわらないということもあるんです。 建材と銘木の範疇に入らないものも重点的に狙おうじゃないか、要するに固定観念にとらわれずにやっていこうという方針が成功しているようです。 ― それは、どうゆうものでしょうか。 星さん: たとえば、銘木と建材の中間的なものです。 今後、10年くらいは社寺建築が多くなりますね。 檀家が結束して建て直すとか、道路にかかって移転するとか。 それには、ウチで輸入している台湾ヒノキが最適なんです。 銘木も加工銘木が多くなっていますが、決して下火になっているわけではありません。 ですから、いろいろなものを扱うことによって相乗効果というか、売上が伸びているわけですね。 もっとも最近の傾向として過当競争的な面が多く、利益率が低いことは大きな問題です。 ウチとしては、材木店さんを大事にして、材木店さんのルートで販売していくというのが基本方針ですが・・・・・。 やっぱり、そのルートが本命だとおもいますね。 ― ところで、宅地の値段が高いのが住宅産業の大きなネックではないでしょうか。 星さん: 土地は再生産できませんからね。 土地が高いのでは住宅産業はやりにくいという面がありますが、一方では喜ぶ人もあるわけです。 ― ですから、最近は新築よりも建て替え需要が期待されていますね。 星さん: 安い時に買った土地は、含みが大きくなっているでしょう。 ですから、ローンも組めるし良い家ができるわけです。 これが、やっぱりこれからの主流ですね。 ですから、家はまだまだできますよ。 問題は、その建て替えにどうしたら参画できるかということです。 これが、これからの勝負になるわけですね。 ― ㈱星さんは、ハウジング関係にも力を入れておられるのですか。 星さん: ハウジング関係は、材木店さんとはまったく別のルートですからね。 初めは銘木が主流でハウジング関係には出遅れましたが、今はかなり伸びています。 これからは交友関係も生かしていくなど、もっと力を入れていきたいと思っています。 ― 社長さんは、いろいろな分野で幅広い活動をされているそうですね。 星さん: 誘われて横浜の青年会議所にも割りと早くから参加し、昭和41年ですか、理事長もやりました。 その延長でロータリークラブに誘われて商工会議所の議員になったり、いろいろやりました。 それが仕事に結びつくわけではありませんが、私の兄弟は揃って慶応の運動部出身なんですよ。 私が野球、常務は相撲部で専務はレスリングです。 別の会社にいる次男は、サッカーでした。 息子も慶応で陸上ホッケーをやっていたんです。 ― それは素晴らしいですね。 今後もスポーツマン精神を生かして、ますます発展してください。
野田合板の情報誌1986年6月号の質問に答えて
横浜市の株式会社星さんは、神奈川県というより広く東日本を地盤とされてきた銘木問屋さんです。 最近は銘木のほか建材と住宅機器にも重点を置き、大きな成果をあげておられます。
2年前には、中区から金沢区の木材団地に本社を移されました。 元の本社は繁華街にあり、近くに地下鉄の駅ができるなど、作業や管理面でいろいろな不便がでてきたためです。
ノダ製品はノダハウスキットを中心に、扱い量を急速に伸ばしたおられます。
― ㈱星さんは老舗の銘木問屋として知られていますが、いつ頃、創業されたんですか。
星さん: 戦前は、東京の篠田銘木店さんの支店だったんです。 その時に、ノダさんのベニアも扱っていました。 父親は オートバイが好きで、小さな荷台のついたオートバイで配達していました。 ベニア板を積んで、その上にいろいろ なものをのせたりしましてね。 僕らが4~5才の頃でした。 倉庫の中で遊んでいて、誰かが縄でしばったベニア の下敷きになったというような思い出もあります。 店は、昭和2年からやっていました。
― そうしますと、戦後、星銘木店さんに変わられたわけですか。
星さん: 戦争中に木材統制令が布かれて、個人営業ができなくなりましたね。 その時に父親がすべてを精算して、本店と いうか篠田銘木店さんに全部お返ししたんです。 自分は神奈川県の地木社に入ったところ、昭和20年の5月 29日に空襲があって横浜が焼けてしまいました。 そのあと、8月に終戦になったわけですが、篠田さんも「もう、 あそこでは商売しない」といわれるので、中区にあった元の場所を譲り受けてボチボチはじめたんです。 戦災の 復興にはまず木材ですから、初めは銘木というより木材を扱いました。 秋田とか、山元にキャッシュを持っていっ て貨車で買い、それを売ると、また買いに行くという形でね。
― 銘木をはじめられたのは、いつ頃ですか。
星さん: そのうちに、郊外に焼け残っていた磨き丸太とかを持ってくる人がいたり、昔の関係で山との取引きもはじまりまし た。 焼け跡はバラックでしたが郊外の方には良い家ができるようになって、また銘木店に戻ったわけです。
ベニアなども、割と早くから扱いましたね。
― その頃は、個人営業だったわけですか。
星さん: そうです。 昭和21年から個人営業をはじめ、落ち着いてきたところで昭和25年に合資会社星銘木店にしました。
それから銘木もボツボツ売れるようになり、木材も相変わらずやっていましたが、昭和35年には木材を分離して 株式会社星木材部という別会社にしました。 その時から、星銘木店は銘木と建材でやってきたんです。
― 現在の社名に変わられたのは・・・・・。
星さん: 昭和42年です。 銘木とか木材にこだわらないで、これからはいろいろなことをやろうということで株式会社星にし ました。 20年近くも前のことですから㈱星という名称にすることには反対もありましたが、今ではこうした社名は 一種の流行になっていますね。
― 木材部の方は、別会社のままですか。
星さん: 木材部も㈱星にまとめましたが、銘木のお客さんである材木店さんとのかね合いもあるのでやめて、銘木と建材、住宅機器を重点的にやっていこうということにしています。 そういうことで、早くから建材や住宅機器を扱っていたんですが、ついつい銘木が主体だったもので建材関係がなかなか伸びなかったということです。
― 昭和42年といいますと、まだ建材類も少なかった頃ですね。
星さん: ベニアとか木毛セメント板、突き板合板、プリント合板などがありましたか。 当時、マルシンさんにも誘われていたんですが、それだけの態勢もないうえ取引きしているメーカーさんとの関係もありましてね。
― マルシンさんのグループに入られたのは、昭和57年ですか。
星さん: 57年の秋に、入りました。 息子も昭和55年に学校を出て岡山の野崎住建さんに、勉強にいっていたんです。
野崎住建さんも銘木からはじまって、建材や住宅機器を手広くやっておられます。 そこで、社長さんにお願いして55年から2年間、勉強させて頂いたわけです。 これからは銘木だけではやっていけないし、「建材や住機にも力を入れていこう。 ちょうど、息子も帰ってくる。 この機会に加入させて頂きたい」ということで参加したわけです。 そのあと、すぐに息子も帰ってきました。 タイミングも、良かったんですね。
2年前には、中区から金沢区の木材団地に本社を移されました。 元の本社は繁華街にあり、近くに地下鉄の駅ができるなど、作業や管理面でいろいろな不便がでてきたためです。
ノダ製品はノダハウスキットを中心に、扱い量を急速に伸ばしたおられます。
― ㈱星さんは老舗の銘木問屋として知られていますが、いつ頃、創業されたんですか。
星さん: 戦前は、東京の篠田銘木店さんの支店だったんです。 その時に、ノダさんのベニアも扱っていました。 父親は オートバイが好きで、小さな荷台のついたオートバイで配達していました。 ベニア板を積んで、その上にいろいろ なものをのせたりしましてね。 僕らが4~5才の頃でした。 倉庫の中で遊んでいて、誰かが縄でしばったベニア の下敷きになったというような思い出もあります。 店は、昭和2年からやっていました。
― そうしますと、戦後、星銘木店さんに変わられたわけですか。
星さん: 戦争中に木材統制令が布かれて、個人営業ができなくなりましたね。 その時に父親がすべてを精算して、本店と いうか篠田銘木店さんに全部お返ししたんです。 自分は神奈川県の地木社に入ったところ、昭和20年の5月 29日に空襲があって横浜が焼けてしまいました。 そのあと、8月に終戦になったわけですが、篠田さんも「もう、 あそこでは商売しない」といわれるので、中区にあった元の場所を譲り受けてボチボチはじめたんです。 戦災の 復興にはまず木材ですから、初めは銘木というより木材を扱いました。 秋田とか、山元にキャッシュを持っていっ て貨車で買い、それを売ると、また買いに行くという形でね。
― 銘木をはじめられたのは、いつ頃ですか。
星さん: そのうちに、郊外に焼け残っていた磨き丸太とかを持ってくる人がいたり、昔の関係で山との取引きもはじまりまし た。 焼け跡はバラックでしたが郊外の方には良い家ができるようになって、また銘木店に戻ったわけです。
ベニアなども、割と早くから扱いましたね。
― その頃は、個人営業だったわけですか。
星さん: そうです。 昭和21年から個人営業をはじめ、落ち着いてきたところで昭和25年に合資会社星銘木店にしました。
それから銘木もボツボツ売れるようになり、木材も相変わらずやっていましたが、昭和35年には木材を分離して 株式会社星木材部という別会社にしました。 その時から、星銘木店は銘木と建材でやってきたんです。
― 現在の社名に変わられたのは・・・・・。
星さん: 昭和42年です。 銘木とか木材にこだわらないで、これからはいろいろなことをやろうということで株式会社星にし ました。 20年近くも前のことですから㈱星という名称にすることには反対もありましたが、今ではこうした社名は 一種の流行になっていますね。
― 木材部の方は、別会社のままですか。
星さん: 木材部も㈱星にまとめましたが、銘木のお客さんである材木店さんとのかね合いもあるのでやめて、銘木と建材、住宅機器を重点的にやっていこうということにしています。 そういうことで、早くから建材や住宅機器を扱っていたんですが、ついつい銘木が主体だったもので建材関係がなかなか伸びなかったということです。
― 昭和42年といいますと、まだ建材類も少なかった頃ですね。
星さん: ベニアとか木毛セメント板、突き板合板、プリント合板などがありましたか。 当時、マルシンさんにも誘われていたんですが、それだけの態勢もないうえ取引きしているメーカーさんとの関係もありましてね。
― マルシンさんのグループに入られたのは、昭和57年ですか。
星さん: 57年の秋に、入りました。 息子も昭和55年に学校を出て岡山の野崎住建さんに、勉強にいっていたんです。
野崎住建さんも銘木からはじまって、建材や住宅機器を手広くやっておられます。 そこで、社長さんにお願いして55年から2年間、勉強させて頂いたわけです。 これからは銘木だけではやっていけないし、「建材や住機にも力を入れていこう。 ちょうど、息子も帰ってくる。 この機会に加入させて頂きたい」ということで参加したわけです。 そのあと、すぐに息子も帰ってきました。 タイミングも、良かったんですね。
星銘木店の生い立ち
昭和20年8月15日に、我が国は第二次世界大戦に敗れ終戦を迎えた。 星豊吉一家は横浜大空襲によって焼き出され、一時千葉県の佐原へ疎開していた。
妻の実家がある佐原へ不本意ながら疎開せざるを得なかった星豊吉は、すぐに横浜へ舞い戻った。そして、焼け野原になっていた元の場所にすぐにバラックを建てて住みだした。 何しろ物が不足していた時だから、金さえあってどこからか品物を手に入れてくれば飛ぶように売れた。 豊吉は根が銘木店の出だから、木材など家に関わる物を探し買い求めそして売った。 木材ばかりではなくトタン板なども扱ったらしい。
妻のまさは、夫の豊吉とともに必死に働いた。 実家のある千葉県香取郡佐原町の知り合いに材料仕入れの為の資金を借りたりして協力した。 勿論、借金は利息をつけて立派に返した。 何しろ儲かったから当然であり、その知り合いの人にも大変喜ばれたという。 豊吉は、終戦までは篠田銘木店横浜支店長であったが、終戦を迎えた時にご主人の篠田武助社長から「横浜の土地を君に譲るから独立してやってみろ」と暖かいお言葉を戴いた。 豊吉・まさ夫妻は天にも昇る気持ちで有難く譲り受け、ここに星銘木店をスタートさせた。 昭和21年のことであった。
二人はよく働いた。 篠田銘木店横浜支店長であったという肩書きは信用が絶大であり、地方の仕入先も皆快く肩入れしてくれた。さて、星銘木店の店員として協力してもらえないかと石田朝義・阿部俊三の両氏に話を持ちかけた。 両氏とも篠田銘木店横浜支店の元店員であって星豊吉の部下であった。 しかし、両氏ともこれを機に独立して店を持ちたいとこの話を断った。 やむを得ず他を探そうということになり、いろいろ手を尽くして求めた。 そうしたら、横浜市内で戦前に木挽きをしていた内野さんという人の次男の和雄さんが、是非使って欲しいといってきた。 また新潟から阿部俊三さんの親戚の平野正雄さんという人が入店して来た。 福島県南会津にいる豊吉の父親の星豊八にも手を回して頼んだ。 そして、阿部義雄さんと深谷松吉さんが入店してくれた。 店員が4名になった。
その後、前に話を持ちかけ断られた阿部俊三氏が訪ねてきて、自分もいったんは店を持とうと思ったがうまくいきそうもないので、お店で使って欲しいといってきた。 豊吉は一旦断ったのに今更そんなことを言ってきても雇うつもりはないと、耳を貸さなかった。 しかし、妻のまさが夫を宥め、折角ああ言ってきたのだから使ってあげましょうと口説いた。 豊吉もしぶしぶ承諾し、店員は5名となった。 今だから言えるが豊吉はそれ以来、あべ俊三が嫌いになった。 豊吉は、人間は一度言ったらそれを通すべきだし、翻意したのは男らしくないと言っていた。 戦後バラックが立ち並ぶ頃は、横浜市内などでは本業の銘木などはまるで需要は無かった。 名前は星銘木店でも実際は一般木材が主であった。 銘木が少しづつ売れ出したのは、それから暫くしてからであった。
妻の実家がある佐原へ不本意ながら疎開せざるを得なかった星豊吉は、すぐに横浜へ舞い戻った。そして、焼け野原になっていた元の場所にすぐにバラックを建てて住みだした。 何しろ物が不足していた時だから、金さえあってどこからか品物を手に入れてくれば飛ぶように売れた。 豊吉は根が銘木店の出だから、木材など家に関わる物を探し買い求めそして売った。 木材ばかりではなくトタン板なども扱ったらしい。
妻のまさは、夫の豊吉とともに必死に働いた。 実家のある千葉県香取郡佐原町の知り合いに材料仕入れの為の資金を借りたりして協力した。 勿論、借金は利息をつけて立派に返した。 何しろ儲かったから当然であり、その知り合いの人にも大変喜ばれたという。 豊吉は、終戦までは篠田銘木店横浜支店長であったが、終戦を迎えた時にご主人の篠田武助社長から「横浜の土地を君に譲るから独立してやってみろ」と暖かいお言葉を戴いた。 豊吉・まさ夫妻は天にも昇る気持ちで有難く譲り受け、ここに星銘木店をスタートさせた。 昭和21年のことであった。
二人はよく働いた。 篠田銘木店横浜支店長であったという肩書きは信用が絶大であり、地方の仕入先も皆快く肩入れしてくれた。さて、星銘木店の店員として協力してもらえないかと石田朝義・阿部俊三の両氏に話を持ちかけた。 両氏とも篠田銘木店横浜支店の元店員であって星豊吉の部下であった。 しかし、両氏ともこれを機に独立して店を持ちたいとこの話を断った。 やむを得ず他を探そうということになり、いろいろ手を尽くして求めた。 そうしたら、横浜市内で戦前に木挽きをしていた内野さんという人の次男の和雄さんが、是非使って欲しいといってきた。 また新潟から阿部俊三さんの親戚の平野正雄さんという人が入店して来た。 福島県南会津にいる豊吉の父親の星豊八にも手を回して頼んだ。 そして、阿部義雄さんと深谷松吉さんが入店してくれた。 店員が4名になった。
その後、前に話を持ちかけ断られた阿部俊三氏が訪ねてきて、自分もいったんは店を持とうと思ったがうまくいきそうもないので、お店で使って欲しいといってきた。 豊吉は一旦断ったのに今更そんなことを言ってきても雇うつもりはないと、耳を貸さなかった。 しかし、妻のまさが夫を宥め、折角ああ言ってきたのだから使ってあげましょうと口説いた。 豊吉もしぶしぶ承諾し、店員は5名となった。 今だから言えるが豊吉はそれ以来、あべ俊三が嫌いになった。 豊吉は、人間は一度言ったらそれを通すべきだし、翻意したのは男らしくないと言っていた。 戦後バラックが立ち並ぶ頃は、横浜市内などでは本業の銘木などはまるで需要は無かった。 名前は星銘木店でも実際は一般木材が主であった。 銘木が少しづつ売れ出したのは、それから暫くしてからであった。

