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皆さんこんばんわ

本当は今日は先日行った心療内科の紹介状を持って

精神病院に行く事になっていた

昨晩はまったく眠れなかった朝8時まで

また意味の分からない物と格闘をしていた

頭がモウロウとして車の運転は危険と判断し延期した


自分自身がこんな状態になり

こんな事を書くことになるなんて

少し前までは夢に思わなかった

心の病気は特殊の人がなる物だと信じて疑わなかった

現在の僕の心の病の状態を話している

一人の親友を除いては

今僕がこんな状態にいるなんて知るよしもないと思う


昨日その親友がメールをくれた

うれしかった

しかし 僕はその彼を社長としても

待ってあげることが出来なかった

結果期待に沿えることが出来なくなって

彼からすれば裏切られたと思っているかもしれないが

大変な迷惑をかけてしまっている事のに

彼は僕を心から心配してくれている

心に痛む


話は変わりますが僕は初めてプログというものを始めた訳だが

せっかくブログを始めたので

本日よりアフィリエイトというもの始めた


知らない人の為に言っておくと

簡単に言うとホームページ上の広告である

このブログの各スポンサー、バナー広告からクリックして

サービスや商品を購入していただくと

紹介料として僅かばかりのお金が僕にもらえる仕組みである

貧乏な僕の為に、もし機会があったら活用してみてほしい

タバコ銭ぐらいには、なってほしいと期待している

多分現実はそんなならないと思うが

やっぱりブログなんぞしていても

商売人の気質が抜けない僕である

やっぱり商売人は商売人で

キムタクが演じた映画、武士の一分ではないが

商売人の一分なのかもしれない

貧乏すぎる僕に 愛嬌だと思って許してほしい・・・



では本題に入りたい 第三弾目

僕が社長に成った訳 恩師A先生 後編である

少しおさらいするが恩師A先生は専門学校の

一学年時の担任である

背が小さくメガネをかけていて口の周りに髭がある

売れない画家のような感じで僕と同郷であった

詳しくは 僕が社長に成った訳 恩師A先生 中編を読んでほしい


A先生からの運命のPHSが鳴った日  ※『PHSとは当時流行った受信範囲の狭い携帯みたいなもの』

もちろん僕は暇であった


当時は僕は22歳本来であれば現役大学生が卒業した年齢だった

学校近くの目黒のアパートからから板橋区の成増という東京と埼玉の境に住んでいたが


暇であるのでA先生のPHSの呼び出しに従って

もちろん秋葉原に出向いた

記憶では今では新しくなった万世橋警察署

あたりの中古パソコンパーツで

先生が好きなMacの部品を見て僕はDOS/V系のパーツを各々物色し

雑談をしながら見ていたのだと記憶する


その後の記憶は今でもはっきり覚えている

すぐ近くの都内にはチェーン店として多いルノアールという喫茶店に入った

何を注文したのかは覚えていないが

A先生は突然先生自身の話をし始めた

先生は建築専門学校ではデザインを教えていた


もともと、お父さんが国家公務員で

全国に転勤が多く いつの間にか絵が好きになり

有名な美大に通った 本当は絵描きになりたかった

しかし夢破れたと


専門学校の講師になる前は、

画材屋の雇われ店長などもした事を語ってくれた

そんな話をしてくれている先生に


22歳の僕は 素直に半泣きで

心からの叫ぶように今の現状を相談をしたアップ


田舎から来て専門学校に入ったが

いろいろなトラブルで今は無職


金も無い・コネも無い・学歴も特技も無いと

僕は社会の不満をぶつけるようにA先生に語った


だが 一つだけ先生は僕に反論した

金も無い・コネも無い・学歴もない事は認める

正直専門学校卒なんて学校でまじめにやっても

現実は大卒よりも低く評価される

オレだって いろいろあったが絵描きにはなれなかった

確かにお前には金も無い・コネも無い

でもお前には若さと特技があるという


な・な・な・なんだビックリマークはてなマークビックリマークはてなマーク

いったいオレなんか特技持っていたっけ

ちんぷんかんぷんである


先生は髭のある口をニヤリとしている!!


しばらくしてから先生はお前好きなことあるだろ

パソコンとかコンピュータ好きだろう って言った


僕はコンピュータの専門教育なんて受けてないし

そんな僕を雇ってくれる会社なんてあるわけ無いじゃんと言った

負じに先生もやってみなくては わかんねーだろ言った


そう先生に言われた瞬間はそんなものかと思って

喫茶店を出た

それから帰の電車・帰り道ずっと先生のやってみなくては わかんねーだろがと言われた言葉が

頭から離れなかった


成増のアパートについた僕はひとり考えた

もしかしたら今までの僕の知識の範囲でも

仕事が出来るかもしれないと思った


僕がネットを始めた頃の

統計によるとネット人口は約180万人いたかどうか

現在のネット人口は9000万とも1億人を超えるとも言われている


いろいろ考えた

もしかしたら出来るかもしれない 雇ってくれる会社があるかもしれない

というか、これにチャレンジしないと飯が食えない

やるしかない 

そう思って僕はパソコンをネットに接続し求人を探した

今とは違いそんなにネットに求人情報も少なかったが

自分なりに探した

契約社員であるがある会社の情報を見た

時給制ではあったが 時給2000円


当時貧乏で コンビニで買い物することが出来る人は

お金持ちだと思っていた

コンビニに入るたびに買いたい物が買えなくて

悔しい思いをした事を想いだす。

デパートで買い物する人は大富豪だと思っていた

タクシーっていったい誰が乗るのか不思議だった

本当に真剣な話である


そんな僕が数年後

クレジットカードのゴールドカード2枚の限度額を毎月使い切り

お抱え運転手付で移動するなんて

この時の僕は夢にも思っていなかった


それほど貧乏だった 一日の生活費は300円

タバコを買うかうどん玉にスーパー西友で売っていた

83円の天ぷらが買えるかそんな生活だった

時給2000円は当時の僕にとってはすごいお金である

だって2000円×8時間勤務の22日出勤で 少しの残業がついたら

税金引かれても34万円ぐらいにはなる

つい最近までの給料が10万円の生活をしていた男である


速攻で面接の電話をした

面接日が決定した

当時の僕にとっては生きるか死ぬかである

田舎もんが とりあえず夢を見て東京に来た

微かな望みを託して面接会場に向かった

面接当日は履歴書を提出し簡単なコンピュータの試験があった


2日後に連絡があった

結果は・・・・・・・・

合格です


うれしかった

すぐに先生にA先生に連絡した

喜んでくれた


そして僕はITの世界で、まずは生きていくパスポートを手に入れた


そこは日本最大級のインターネット・パソコン通信のN社だった

どこだか分かってしまうかもしれないが

もう守秘義務期間も終わっているだろう


よく今でもドラマやCMのロケで使われるおしゃれなインテリジャントビル

この前までいた10万円の給料の会社の

40年前の雑居ビルの一室の片隅とは雲泥の差である

このような事を 天と地の差だと言うのだと思った

同じ人間でこんなに働く環境に違いがあっていいものかと

感動した ここが今日から僕の職場となった・・・


この会社事やこの後波乱万丈は順次語って行きたい


その後の僕はこの業界でエリート達が集まる会社ばかりを転々とし

全速力で駆け抜けた


29歳の終わり自分でITの会社を独立したのだった


この話の前編で風邪を引いてA先生を思い出したのは不謹慎だと書いた


なぜか・・・


僕が会社の社長になって2年ぐらいしたある日

専門学校の友人から久々の電話がかかってきた


A先生が風邪をこじらせて、まもなく亡くなったと・・・


葬式に駆けつけていった すべての仕事をキャンセルして

お抱え運転手に 200キロで車を飛ばせと命令した


葬儀場で見た

先生の棺は小さかった


こんなに小さかったのかと思った

まだ 先生は50歳前半だった


酒が好きだった

その頃の僕がオーナーをしていたキャバクラで

女の子キャスト全員付けて

どんな高い酒でも飲ませてやりたかった

でも先生はこの世にはいない


A先生がいなかったら 仕事で成功した事は無かった

今は、さまざまな事で落ちぶれたが

この文章を書いていると もう一度がんばってみようと思う


もともと何も無かった僕なんだから


少しだけ目頭が熱くなった

また少し時間がかかるかもしれないが


復活を誓う A先生へ 



僕が社長に成った訳 恩師A先生 終


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