今日は、成田山新勝寺にお参りに行きました。
午前中に行って、帰ってきたのは夕方でした。

でも、あれこれしていたら、この時間になってしまいました。

そのように参拝をして、帰宅後、忙し過ぎて、書こうと思っていても、時間が経ち、書かないままになったりします。

その結果、私がどう生きているか、ご心配をかけている場合もあるようなので、今回は早めに書くことにします。  

今日は、まず早朝から朝の散歩にでかけています。

朝の散歩に夢中で、色々な発見をします。

たとえば、これはもみじらしき可愛らしい葉っぱの木に咲いていたお花です。




私は長らく生きて、こんな愛らしいお花がもみじらしき木に咲くことを初めて発見しました。


その結果、歓喜で狂いそうになりました。


…なんて書くと大袈裟ですが、本当なんです。

でも、一緒に散歩をしていた二十歳過ぎの娘は、私のようには感動せず、「それがどうしたの?」と訝しげな様子でした。


娘は、今後も、生きる時間が私よりずっと長いでしょうし、人生についても、時についても、有限の感覚がないため、私ほど「一瞬、一瞬を今に生きる」境地になっていないのかも知れません。


それでも、時おり、朝の散歩を一緒にすることで、感動する習慣は、娘にも伝播しつつあるように感じます。


私がいちいち立ち止まって、観察することに対して、以前なら、「時間の無駄」みたいに捉えがちだった娘が今は、興味深く捉えてくれるようになりました。


同じ緑の集団でも、多肉植物の仲間か、苔なのかによって、見える世界も違います。


美しさを感じる心も違います。


自然界のものを見て、美しさを感じる心、豊かさを感じる心は、人の心に平安と幸福をもたらせてくれます。


美しい自然、たとえそれがどんな小さな世界であっても、私はその小世界に異次元の魔法や、生物や、妖精達を見ますから、嬉しくなって、ウキウキと無限の喜びに浸ります。



そして、つい最近、気づいたことがありました。


私は子どもの時、1人きりでも、無限の喜びや幸福感に浸る瞬間が多々あり、その多幸感というか、至福感をまとう空気が、ある種の人々の嫉妬を買って攻撃を受けることになっていたのだと。


そういう人は自分が得られない幸福を憎み、幸福を得る人を敵のように憎むものなのだと。


私は平和主義者だったので、そういう人が身近にいると、嫉妬され攻撃されるので、それを避けようとして、至福感が漏れ出ないように気を配るようになりました。


でも、いきすぎた平和主義はよくないです。



幸せであることを嫉妬する人達からの攻撃を避けるため、あえて不幸そうにしたり、自己卑下をする習慣を知らぬ間に身につけることがあります。


その結果、自分の人生の型をネガティブな型にはめる場合がありますから。


幸せだと嫉妬する人から攻撃されるから、ほどほど不幸の方が攻撃されず、安心みたいな…。


そうならないためにも、他者からの攻撃や足の引っ張りを跳ね除ける強さを身につけるまでは、付き合う人は慎重に選んだ方が良いです。


人の幸せを妬む人とは、付き合わないと意識の中で決意して、心の中でも明確に一線を引いた方が良いと思います。


私などは、どんな状況的にいても、幸福を見出す天才でしたが、同じような人は世の中いますから、同じようなタイプの人と手を組んで精神状態をキープしたら良いですね。

私は、第三者的に見て、大概、不幸な境遇であっても、いくらかの愛や美や幸せや喜び、つまり幸福の種があれば、私の脳は幸福の種にフォーカスしたものでした。


その意識が現象化してムードとなり、私を至福感で包み、守ってくれました。

そのムード、意識、脳の状態が、現実でも私を助けてくれる人々や、自然界の存在を現象化してくれました。


そういった意識は仏性と通じるものだと思います。



今日の娘のチョイスは、ローヤルビネガーという飲み物でした。

残り3センチくらいで、娘からもらって飲みましたが、蜂蜜🍯とビネガーのバランスが絶妙で美味しかったです。


つづく


あ、それから私の活動ですが、最近ブログの更新頻度は低いため、私が何をしているか想像つかない方が多いと思います。


成田山新勝寺にお参りに行くと加持祈祷に参加させていただきます。

加持祈祷の太鼓がすごく好きなのです。


私が書いたペーパーバックは3冊持参して、お火加持していただぎす。


私の本を枕元に置いて休まれている方もおられるそうです。

ですから、著者として、ご神仏のお力をお借りしながら、常に浄化されること、天上界の光が本を通しても放たれたら良いと願い、お祈りしています。