ブログネタ:友達にお金いくらまでなら貸せる?
参加中先日ヴェニスの商人を読んだ。
- ヴェニスの商人 (新潮文庫)/シェイクスピア
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アントーニオが
友人バサーニオの為に
ユダヤ人の高利貸しのシャイロックから
自分の肉1ポンド(心臓)を担保として借金をする
この物語では
アントーニオとバサーニオがどうやって友情を築いてきたかは
あまり触れられていないが、
自分の命に関わるようなリスクを抱えてでも
友人の担保になるという友情の鏡ともいえる絆が出来ている。
高利貸しのシャイロックはというと
善意でお金を貸しているわけではなく、
アントーニオが憎く、
アントーニオの命を奪えるという最大の見返りがあるから、
お金を貸すのは厭わないという考えだ。
この物語を読んでいて
一言で言うと腑に落ちない
前提として
キリスト教 肯定
ユダヤ人 否定
がある。
キリスト教信者でもなく、
ユダヤ人に対して、
偏見も、逆に特別な尊敬もない
自分は
この物語の前提として根本的に
疑問を感じた。
お金を貸すのに金利を取ってはいけない、
ユダヤ人は愚か
この理屈はキリスト教であり、ユダヤ人を差別する前提での
話であり、この前提は理解できなかった。
この物語の前提が理解できない自分には終始
腑に落ちない点があった。
キリスト教の自分たちは偉い、ユダヤ人は愚かという前提が終始続き、
読んでいると歯がゆかった。
前提というのは感性とか価値観に大きく関わっており、
理屈では説明できないものである。
また、この前提は人それぞれでもある。
前提がありその上に理屈を積み上げていく、
理屈はいくらでも積み上げる事ができる、
例えば
国同士の扮装について
→悪い事をする国民がいる
→悪い国だ
→悪い国は倒さなくてはいけない
→戦争をしてもいい
という具合だ。
価値観が似ていれば
どんな理屈でも最終的に価値観に帰属する為、
どこかで共感は出来る、
しかし、価値観の会わない場合はどういう綺麗な理屈でも、
会わないものは会わない。
今回のヴェニスの商人を読んでつくづく感じた。
この作品の著者シェイクスピアは
先見の明でユダヤ人への差別をこのヴェニスの商人で逆説的に訴えたという説もあるが、
実際のところ不明である。
本当にユダヤ人への差別を訴えた作品であれば、
シェイクスピアという人物を尊敬する。
逆に単純にユダヤ人を差別し、キリスト教を肯定する前提で
書かれた喜劇であれば、
先に論じた作品より中身は同じだが自分の中での厚みがぐっと薄くなる。
この作品を読んだユダヤ人はどう思うか。
胸が痛くなる。
話は戻るが、
友達にお金いくらまでなら貸せる?
これは時と場合によるが、
帰ってくるかどうか、
自分で判断して帰ってくると判断(信用)できれば
上限5万円くらいまでは貸す。
けれども、友達が本当に切羽詰っている場合は
貸して欲しい金額の
10分の1くらいを貸すのではなく
あげる。
貸すという前提だと
帰ってこなかったときにトラブルの下になりやすい。
あげてしまえば
後ずさりはない
あげてしまったからだ。
全額ではなくて、
10分の1
その人に本当の意味で手助けするのは
貸すのではなくて、
あげる事なのだと思う。
全部はあげられなくても、
10分の1がその人に対する紛れもない
支援になるからだ。
この10分の1をあげるという考え
尊敬する渡邉美樹氏の著書を読んで身に付いた。