考える人 2010年 08月号 [雑誌]/著者不明
¥1,400
Amazon.co.jp

↑最近お風呂で読んでいる雑誌。

お目当ての村上春樹の3日に渡る非常に興味深いインタビューは購入後すぐ読んだのだが、その他の記事もとても面白いので最近じっくり読んでいる。


その中でつい反応してしまったのが、長沼毅教授の「イノチをつくる散逸構造」。

その文中で、出てきた論理学。


『命題:AならばBである

逆:BならばAである

裏:AでなければBでない

対偶:BでなければAでない


命題が真であるとして、「逆は必ずしも真ならず」というのはその通り、

「裏も必ずしも真ならず」である。

ところが、逆と裏が合わさった対偶は命題の真偽と一致する。

例をあげると・・・』


とあったので、理解を深めるためにいつもやっている自分なりの例を考えた。

やっぱり・・・これから。


命題:鷲津はファンドマネージャーである。

逆:ファンドマネージャーは鷲津である。

裏:鷲津でなければファンドマネージャーでない。

対偶:ファンドマネージャーでなければ鷲津でない。


逆と裏は偽だが、対偶はかなり真実に近い。


我ながらいい例だ。

とかお風呂で考えてニヤニヤする私はかなりの変人だ。ちゃんと自覚している。


これが「鷲津は不器用である。」とか「鷲津は芝野先輩を愛している。」とかではちょっと違うし。(笑)


長沼先生の文中でもう一つ無理矢理「ハゲタカ」に結び付けてしまった文章をご紹介。


『日本が誇る数寄文化「茶の湯」では同一性の心が透徹している。茶碗、水指、・・・棗などの茶道具全般にわたって、オリジナル(本歌)に対するコピー(写し)が使われることが多い。しかし、茶道の「写し」は単なるコピーではない。それは「心」を写したものなので、オリジナルと同じなのである。つまり物質(質科因)が違っても、心(形相因、作用因、目的因)が同じなら、同一とみなすのである。それは、茶会の本旨、すなわち亭主と客の心が一同に和すことにもつながる。』


「ハゲタカ」で繰り返されるあのテーマのことを思ってしまった。

「オレは、アンタだ。」(劉一華⇒鷲津政彦)にしても、劉くんは「ニセモノ」by村田さんではあったけれど、鷲津の単なるコピーではなく、「心」を写したものなので、オリジナル=鷲津と同じなのである。

そして、わしらは茶会の客であり亭主は・・・大友さん?

こじつけ過ぎ?(笑)