前述YAMAHA セロー君 とハゲタカ で、当時を思い出しつつ書いていたときは、
セロー君と四万十川を遡ったと思っていたが、書き進むうちにそうではなかったと思い出した。
ハゲタカ→宇崎竜童さん→バイクの話→セロー君とどんどん記憶の扉が開いていく。。。
私の愛車はYAMAHAのオフロードバイク セロー君。↓
これが友人たちいわく、オーナーに似てとてもわがままで雨の日など本当にエンジンがかからなかった。
セルスターターは雨に弱く、その際はキック式になるので脚力の弱い私のキックではかなり厳しかったのだ。
この子とは、思い出がたくさん。先代の YAMAHA SRXよりも思い出は多いかも。
道後温泉、内子町、出雲や蒜山にも行ったし、春には梅の名所にでかけたり、
秋には渓谷に出かけコーヒーを淹れて飲んだりした。
長崎までのツーリングで無謀にも関門海峡大橋を渡りものすごい横風と、視界に映ってしまう
眼下の粗いゲージ越しの海との恐怖と闘ったのを思い出す。高所恐怖症だし。。。
ふつうはトンネルを使うのだそうだ。中型バイクの人は。
無知で無謀だった。若かった。
中でも四万十川ツーリングの思い出は強烈。
おそらくちょうど今頃の時期。
東京の真ん中で20代半ばの私はものすごいプレッシャーの中で働き続きた。
そんな私に地元の友達がすてきな企画を。
東京港からフェリーで高知に行き、四万十川を遡るツアーだ。
高知で落ち合うはずが、東京港に向かう首都高であともう少しで到着というところで
セロー君はエンストを起こしてしまい、偶然後ろを走っていた荷台に空きのあるトラックに助けられた。
バイク乗りのお兄さんたちが配送用トラックを運転してたのだ。ライダーは助け合うのだ。
とは言え、相当運がいい。後から知った(標識がわかりにくかった・・・)が、
首都高はバイクは走ってはいけないので、本当なら警察につかまっているところだったらしい。
ライダーとして叱ってもらった。
お兄さんたちがものすごく要領よく、見る見るうちにセロー君を荷台に載せロープで固定する様はかっこよすぎた。
配達の後、お兄さんの知り合いのバイク屋さんで降ろしてもらい、修理を終えたが結局、東京-高知のフェリーには間に合わず、このために無理やり休暇を取った私はあきらめきれず
急遽地元までの翌朝の飛行機を手配して、その日はセロー君で都内の家に帰った。
夜の都心をバイクで走ったのはこの時が最初で最後。
思いの外、夜の都心というのは走り易くて新鮮な気分だった。
いつも芝居がおわると外観を見ることもなく帰る歌舞伎座が、ライトアップされとてもきれいだった
のを鮮やかに思い出した。もうすぐ消えるんだよな・・・あの建物も。。。
(私って書きながらどんどん思い出すタイプらしいって今頃気づいた)
結局、飛行機で実家に戻ったとたんに先輩ライダーである実家の妹のバイク HONDA CBXを借りて、フェリーで四国に渡り高知に行った。
初秋の四万十川は美しく、本当に楽しい思い出になった。
四万十川を海=河口からずっと遡ったが、川沿いの道はどんどん細くなり早く山を越えないと
夜になってしまうと少し焦っていた。
途中細い山道で対向車を避けるために無理なハンドリングをして、コントロールを失った。
「終わった」と思った。
が、友人の笑い声で意識が戻った。
私は、目の前にバイクが立っているのを見上げていた。
奇跡的に、山側の細い側溝にバイクがきれいに収まり、私はその後ろにお尻がすっぽりはまった
状態で気を失ってたらしい。
前を行っていた友人が、バックミラーから消えた私を探しに戻って目にした風景。
側溝にはまって自立するバイクの後ろ側に、尻もち付いたような私もはまっていたのだ。
深刻な事態だが、あまりの強運と構図に、ブラックユーモアの大好きな友人は笑いをこらえられなかったらしい。
ひどい、と抗議したがこんな山奥で、自らのテクニック不足で事故をおこしてしまったのだから
すごく迷惑をかけているわけだ。
抗議などできる立場ではないことに瞬時に気付き、一緒に笑っていた。客観的には面白すぎる。
こんなときに笑ってくれる友人に感謝した。
反対側に滑っていたら、10m以上ある崖を川まで滑り落ちていたはずだ。
もちろん、生死にかかわる事故になっていたはずだ。
その後めったに車が通らないのに、通りかかった車からおじさんが降りてきて、一緒にバイクを引き上げてくださった。
バイクもクラッチがやられていたが、何とか運転できる状態だった。
私も打撲とかすり傷だけだった。
本当に強運だと思う。
帰路は、ギアチェンジが出来ない状態で走り続け、深夜実家に帰宅した私は
バイクを壊したと妹になじられ(当然だ)、人のバイクを借りてまで強行したことを反省した。
その後、実家に戻ってきたセロー君は、私が知らないうちに親によって売り払われていた。
「もう、乗らないでしょ。」って。
結局その言葉どおりになり、ライダーだったこともすっかり忘れて暮らしている。
この旅でサポートしてくれた友人にも改めて感謝を捧げたい。
もっと色々なことに感謝して、日々精進しなくては、と今書きながら改めて思った。