前回の記事に書いた通り、先日
久しぶりに心療内科へ行きました
「随分時間が空いたけど、この間どんな感じで過ごしてた?」
ということからはじまりました。
これまで私が心療内科や精神科の先生、
カウンセラーさんに求めていたのは、
“ただ肯定して、辛いのをどうにかしてほしい”
ということだけでした。
自分でも受け止め方がわからないし、
この辛さをわかってくれる人もいない、
そういう想いを扱いきれずにいたからです。
けど、
「結局それができる先生もいないじゃん!」
という不信感で
どこか臨戦態勢で通院していて、
途中でやめてしまうことを繰り返していました。
けれど、前回の記事に書いたように、
心を扱うプロは、
「痛みをとるプロ」ではなく、
痛みに対しての知識や、
対処法に精通している人で、
そのサポートを受けながら
痛みをとるのは自分がすること
と気づいたからか、
これまでと違ってリラックスして
診察を受けることができました。
「もう少し休みましょう。
少し大変かもしれないけど、
体力つけることにもなるから、
あまり間をあけないで来るようにして様子をみせてね」
というようなことを言って頂いて。
サボっているのでなく、本当にしんどくて動けなくても、
“そう見えないから”という理由で
いつも親に
「ちゃんとしろ」と言われていました。
目に見える形で、熱が出たり、吐いたり、
発疹が出たりの症状が出なければ
わかってもらえませんでした。
“未病”の状態でも、コンディションがかなり悪ければ
日常生活さえ大変ですよね。
けれど、その通りにしないと、
どこまでもしつこく追いつめてくるから、
これ以上ダメージを受けないために
かなり無理してでも頑張る癖がついていました。
そんな「休む」ことに強い罪悪感があった私でしたが、
先生のその言葉を素直に受け止められている自分に気づき、
そこからようやく解放されたように感じて、
「やっと休んでいいんだな」と
とても穏やかな心地になりました
今度こそ、元気になれそうな予感がとてもします。
こんなに放置してズタボロになったのだから、
少しずつしか元気にならない。
でも、考え方を変えれば、
少しずつ元気になれるんですから、
焦らないで、周りのサポートやアドバイスを取り入れながら、
回復していきます。
けど、言われたことを鵜呑みにすることで、
かえって不満を抱えて、人間不信をぶり返さないように、
モヤモヤを放っておかない、
必要なことは遠慮せず言っていこうと思います。
自分の人生の主導権はあくまで自分。
でも、人の意見も取り入れられる柔軟さも
どっちも必要です。
臨機応変、バランスが大切、
その感覚をやっと掴むことができてきました
今日は、近所に買い物に行きました。
家を出た瞬間、なぜか
「道の上を歩いている感覚」
をあえて意識して歩こうとふと思いたちました。
そうやって歩いていたら、
また答えが流れてくるように
これまで気づいたことが繋がるようなことが起きました。
前向きに生きることを
「前を向いて歩け」とか
「上を向いて歩こう」とか言いますね。
けど私は、
前どころか、上どころか、
別のところを向いて生きていた
んだなって、はっとしたんです。
前向きに生きたいのに、辛すぎてできないから、
意識を現実から切り離して、
自分の妄想・空想の世界にリンクして楽しむことで、
“前向きに生きている”と思っていたんです。
けど、現実逃避していたんですね。
それに改めて気づきました。
地球上を生きているのに、
私の意識はいつも自分の内側に向いていて、
実態の私は、親や周りの言ったことに
脊髄反射して動いている状態でした。
自分でほぼコントロールしてないのに、
勝手に身体が動いてくれてる感覚です。
伝わりますかね…。
そりゃあしょっちゅうケガしたり、
ケアレスミスばかり起こすはずです。
想像力、イメージの力を生かして生きれば、
創造的で豊かな人生にしていくことができます。
けれど、ちゃんと肉体をもって
この地球に生きているという感覚も持つことも必要。
それが希薄だから、
自分の脳や肉体を使う感覚が掴めなくて、
あらゆることにおいて
タカチにしたり、達成するということが本当に苦手だったので、
自己肯定感はほぼ皆無。
そのくせ完璧主義だから、気難しくて、
いつも内部分裂状態で、苦しいことこの上なかったです。
素晴らしい人にみられようと振るまっていても、
内心は
「みんなすごいな。なんで私は何もできないんだろう。」
と感じながら、1人取り残されているような、
おぼろげな意識で生きていたのです。
薄い意識で生きている部分は、
まだ解消されていませんが、
モヤのようなものが取れる感覚になれることが
時々起きるようになってきたので、
これもよくなるのではないかと期待しています
目の前に起きることに
一つ一つ丁寧に対処する
それが、
「地に足をつける」
ということなんだなと
最近やっとわかったのです。
それがわからず、周り、特に親の言う
「普通」「ちゃんと」に従って生き、
母の言うように、それが
“地に足をつける生き方”だと
思い込んでいたけど、
地に足がつくどころか、いつも浮遊している感覚で、
「なんかフワフワしてるよね」
と人に時々言われるくらいでした。
どんなに逃げたくても、
しつこく私の人生=生き方に「侵入」して
支配してくる人が
生まれたときから一番近くにいたから、
せめて意識だけは「ここではないどこか」
にもっていかないと、とても耐えられなかったのです。
いわゆる、解離ですね。
もちろん、意図してそれができてたわけではありません。
人体は、無意識にそういうことができる能力をもっているんでしょうね。
私は子供のときから占いが好きなのですが、
いろんな占いに『イメージの力が強い』と
出ていて、「そう!わかってくれるかー!」
と思いながら見ていました。
証拠がないと言われても、
私自身がそれを強く感じながら生きているのが、
何よりもの証拠です。
そんなところがあるから、
余計に解離しやすかったのだと思います。
自分を守るため脳は、私が意図しなくても
そういう「処理」をしてくれていたんです。
そのおかげで、
過干渉の雑音の中をどうにか生きてこれました。
けれど、
もう干渉をうけるところから、
ほぼ脱することができたのだから、
“もうそんな処理はしなくていいよ”
って脳に意図すると、
自分がかけているブレーキや息苦しさから
身軽になっていくことを日々体感しています。
なので、これからますます
癒されていくのだろうなと思います
自分の思い通りにならないと、
二言目には「誰のお陰で生きれてるんだ」
と親から言われてきて、
今もひしひしそれを感じる瞬間があります。
今までは言われっぱなしで、
ただ耐えて思い悩んで、
自分を守るために親を心で責めることしかできませんでしたが、
今の私は、モヤモヤした思いの正体を
明確な言葉として捉えることができるようになりました。
「誰のお陰で生きれてるんだ」に対する
インナーチャイルドのモヤモヤを
大人の自分がくみとってあげることで、
怒りを手放すことができるんです。
『 確かにね、あなた方がいなければ、
私は今ここに存在できていない。
育ててくれたことには本当に感謝していて、
だからこそ、自分の意にそぐわないことも
甘んじて受け入れてきた。
でも、育ててくれたことに感謝してたら、
いつまでも言いなりになって、
支配されるように生きないといけないの?
「感謝してる姿勢」って、
「お互い様」って
そういうことじゃない。
子育てって、その子が
自身の人生、役目を全うして生きれるように、
ある程度土台を作るまでのサポートでしょ。
もう十分、あなた達はそれをしてくれた。
なのに、いつまでもその役目をずるずる続けて
子どもの人生を背負っていようとしないで。 』
これがずっとインナーチャイルドが感じていた、
ずっと言いたかった心の叫びです。
親に感謝していることを素直に認めるのも、
最初はできませんでした。
『感謝なんかできるか!
こんなに苦しめられきたんだ!』って。
でも、感謝してる自分もやっぱり本当で。
だからこそ、こんなに苦しかったんです。
自分の感情や満たされない想いに
しがみついて正当化するのをやめて、手放すことで
こんなふうに理性的な解釈ができるようになってきたんです。
親が好きだからこそ、いや、好きになろうとしていたからこそ、
わかってもらえなかったり追い詰められたりすると
裏切られたようで、幻滅していって。
親に期待しようとする意識と、幻滅する意識、
そのシーソーゲームで、どんどん自分はすり減っていったんです。
なんでもそうですが、
波や落差が大きければ大きい程、
負担になり、激しく消耗することになります。
普段ぐうたらしてる人が、急に激しい運動をしたら、
ケガをしたり、全身筋肉痛になったり、
しばらく動けなくなる程疲労困憊になるのと同じです。
スムーズに自分を生かして生きている人は、
気分の落差に振り回されない力をつけている人
ということなんですよね。
小さいうちは、モヤモヤを言語化する力が足りないから、
とてももどかしくて、癇癪を起こしたり、
泣きわめいたりするしかないんですよね。
その必死の反応をただ「良い子にして!」などと
否定されたら、人間不信になるのも不思議はないです。
けれど生きていく中で、
人は言葉をたくさん知ることができる
当たり前のことではなく、とても幸運なことだと思います。
その力を得た大人の自分が、
子供の自分[インナーチャイルド]のモヤモヤを
言語化して汲み上げることは、
自分の想いに気づき、心の声を聴いて
「そうかー。そんな風に感じたんだね」
って受け止めてあげることになります。
自分の感じたことを肯定することに繋がり、
自分自身の安心感を高めることになるので、
気分の乱高下に振り回されて
感情的に爆発する必要もなくなり、
落ち着いて自分の思いを相手に伝えられるから
伝わりやすくもなります。
「いつまでも私にとってかわいい
子供であることにかわりはないよ(^^)」
と2年程前に母に言われました。
こういう言葉や態度に、「悲しませてはいけない!」と
いつも身動きとれなくなっていたのです。
本人はいいことを言ったつもりでしょう。
確かに関係性は、いつまでも親子、私は母の子です。
けれど、母と接する時だけ、
保護の必要な何もできない赤ちゃん、小さな子供
に戻ることはありませんよね。
それくらい、母だって頭ではわかっているけど、
その頃の記憶があまりにも心地よかったから、
またそれを感じたいと私に無意識に求めるのでしょうね。
その言葉にものすごい苦しさと、
気持ち悪さを感じてしまいました。
「あなたはいつまでも私にとって幼い子供よ」
と言われたようで。
これまでなら、そんなふうに思う自分を責めて、
罪悪感に苛まれて苦しんでいましたが、
むしろ正常な反応だったんだとわかって、
自分を責めないでよくなり、
俯瞰してものごとを捉えられるようになってきました。
少し穿った見方かもしれませんが、
子供の存在を年齢や成長度合いに関係なく
そう認識することで、
親自身が、自分の存在意義を感じることができ、
自信のなさをごまかすこともできるし、
孤独感を感じなくて済む心強さみたいなのがあるから、
それっぽい言い分で、
私をコントロールしようとしてくる部分が
少なからずあると感じました。
もちろん、本人にそのつもりはないです。
“親切でそうしている認識”しかないですから。
「あなたには私が必要でしょ」
「だからこうしてあげてるのよ」
と、お世話してあげている意識なのですから。
けれど、それに気づけたから
母の、
父の、
無意識に支配しようとしてくる人の、
正論であるかのような理屈にまるめこまれて、
支配されるのはやめました。
裏を返せば、
私もそんな人間関係しか築けていなかったということです。
だから、なかなか人と接することに自信がもてず、
人によく見られるため、認めてもらうために
何かになろうと過度な背伸びをしたり、
親切の押し売りをしたり。
仲良くなったらなったで、自分に縛りつけ、
囲いこむような支配的な関わり方しかできない。
それでは人間関係が上手くいかず、
疲れても無理はありません。
『誰も本当の自分をわかってくれない』
『受け入れてくれない』
だから孤独なのではなく
自分が自分に抗って、
鞭打つように取り繕ってしまうことで
自分自身が
『自分を
わかってあげない』
『受け止めない』
ことなるから、
孤独を感じる
のだと気づきました。
母はことあるごとに
「結局頼れるのは家族だけだからね」
といつも言っていたけれど、
母自身が人を信頼できないだけだったということも、
親と精神的に距離をおいてやっと気づけました。
学生時代、そのセリフが本当に嫌で、
ZARDの「Don’t you see!」という曲の中の
“裏切らないのは家族だけなんて寂しすぎるよ”
というフレーズに、
「そうじゃないよね!!!」って
自分の気持ちを重ねて
母に意識が乗っ取られないように
自分に言い聞かせていました。
母は“父親が怖い”と思いながら育った人ですから、
社会に対しても恐れが強かったんだと
客観視することができたことで、
責める気持ちはなくなっていきました。
それでも、家計を支えるために、
這いつくばるように、自分に鞭打って、
頑張って仕事をしてくれていたんだなあと、
本当に頭が上がらないくらいです。
けれど、
家庭の外は信用できない場所、
安心できないただしんどいところだ
と刷り込まれて、
家庭に閉じ込められているのも同然
の状態にされたことも事実です。
親から、物理的・精神的に距離をおくことで、
必ずしもそうではないんだという視点を
持つことがやっとできてきて、
本当に深く癒されてきました。
自分の問題やしんどさを
丸投げするようなことはしない
それだけは気をつけた上で、
しかるべきところに助けを求めることで
サポートしてくれる人、場所、
しくみはたくさんあるんだと、
世の中に対するイメージが
本当に変わってきています
まだまだ全然、こわいですけどね。
そして、当然と言えば当然なのですが
色んな人の力を借りることで
適切に対処することができて、
家族をあてにするよりずっと
安心感を得られることもわかりました。
精神的なことがおそらく根っこにあったのですが、
脳の病気で死にかけて入院をしたり、
中学の頃にはとっくにメンタルは限界で、
保健室に駆け込んで意味もわからず泣いていたりしました。
学校から「精神科に連れていってあげて下さい」
と言われ、しぶしぶ連れていってくれた時の、
母のため息と、あからさまに嫌そうな態度は、
忘れることはないと思います。
精神科は異常な人がいくところと思っていた人ですから、
無理もないです。
だからって、
今だに恨んでいるということではなく。
ただ、適切な対処ができないのに、
「家族のことは家族で解決」と、抱え込もうとするのは
最善ではないということです。
老老介護が度々取り沙汰されますが、
まさにそれですよね。
ものごとを情で捉えてしまう人程、
そうなりがちです。
父も「自分は何でも屋だ」と、
極力なんでも直そうとしたり、作ろうとします。
それ自体はとても立派だと思いますが、
明らかにキャパオーバーで、
認めてもらえないと拗ねたり、
疲れて家族にあたったりする。
人の力を適切に借りれることも、
立派な生きる力、人間力だと思います。
そんな親に対して感じていた
私のインナーチャイルドのモヤモヤはこんな感じです。
『 何のために、
いろんな仕事をしてくれる人がいるの?
お互い様ってそういうことでしょ?
よく考えてよ。
普段何気なく送っているように感じる生活だって
たくさんの人のおかげでなりたってるのに。
そんな狭い視野を、
まるで真実であるかのように私に諭さないで。
あなた達の真実がそれなら、別に否定はしない。
でも、もうあなた達の保護下で
生きてるわけじゃない。
なのにわざわざ追いかけてきて、
保護しようとしてまで支配したいの?
それは「大切にしている」とは違うんだよ。
親なら、信じて突き放すのが愛だと思うよ。
身体が弱いから心配してくれてるのはわかる。
でも、いつまでもあなた達の
保護下でしか生きれなかったら、
あなた達が死んだら、
私は生きていけないことになるでしょ。
だから、自分の力でも生きる方法を探りながら、
色んな人の助けを借りて生きているのに。
私なりの生き方を構築していっているのに。
自分達が安心したいだけだよ。
「これくらいやった自分はいい親だ」って。
いらないと言っても
“遠慮してる”って解釈してるけど、
本当に求めてないんだよ。
少しくらいは厚意を受けとるのも
「お互い様」だって思う。
でも、適切な距離感がわかってもらえないから、
ほんの少しの厚意でも受けとることができない。
その“少し”が、「もっとしてあげよう」
っていうおしつけを生むから。
勝手に私の人生背負おうとしたり、
あなた達の人生背負わせようとしたりしないで。
私は世の中にどう貢献できるか、
在り方を模索しながら、
助けられながら生きてる。
生かされている。
親の求める私でいることが
「親孝行」だというなら、
私は出来損ないの、
育て方を間違えた子供って解釈でいいよ。
支配されるよりずっといい。
親と別の人間であり、
私のオリジナルの人生を生きている。
人のご機嫌や、
おしつけを受け取らない人生を選びとれる、
自分に与えられる。
その分、目の前に起きる現実には
一つ一つ対処したり、
必要なことはめんどくさがらずやる。
それが自己責任だし、
地に足をつけるということ。
そうやって生きると、生きる力がついてくる。
できることが増える。
恐がって、めんどくさがってばかりいたら、
望んでる人生を作れないんだよ。
私ありきで人生設計をしないで。 』
「めんどくさい」「わからない」は母が、
「自信がない(からやらない)」は父が
よく言っていた言葉。
すごくわかるんです。
生存本能が、ラクな方、安全な方を選ぼうと働くのは
自然な反応だから。
でも、もう原始時代じゃない。
一歩外にでたら、命懸けで狩りをする時代ではないのだから、
脳の使い方を、今の時代にあった使い方をすることで、
可能性は広がって充実していくんだなって気づきました。
本当は求めているものがあるのに、
恐れや自信のなさから
それに背を向けて生きていると、
自分の心はいつまでも満たされないままです。
そうすると、
「甘えていい存在」だと
自分に都合のいい解釈をしてしまっている
家族や身近にいる誰かを、
自分を満たすことに巻き込んでいいと
思い違いをしてしまうんです。
しかもそれをしていることにもなかなか気づけません。
ブログで書いてること全てそうですが、
私自身がそうだったから気づけたことです。
身近な人に程わがままに、
横柄な態度になっていました。
だからこそ、
もうそんな自分でいたくないから、
自分のことは自分で満たす!そう決めました
ちいさなことだけれど、実践していっています。
モヤモヤを感じたら、その正体をみつける
ということも、その一つです。
自分を満たすように生きるということは、
ラクな方、安全な方ばかり選んでいたら
叶わないとわかったから。
それで何か「問題」が起きても、
そのことが問題なんじゃなくて、
起きた問題に、真摯に向き合って対処する。
それが、しっかり地に足をつけて
生きることだと気づきました。
一つ一つ確実に対処することで、
自分に実力がつき、引き出しが増える☆
だから人生が豊かになり、楽しくなるんですね
もう、今までみたいに、
人の意識に自分の人生がのまれている感覚で
生きることをやめました。
“そういう生き方をすると
どんな世界の中で生きることになるのか
を体感し経験するステージ”は終了。
頑張って抜けたんだから、
いつまでも古い「意識」を採用していることも
変える必要があるんですね。
自分の頑張りを無駄にしないように。
どんなに母が
私が自立できてきたことを
母が信仰している“神様”のおかげにしたがっても、
頑張ったのは私で、
神様だって、頑張らない人に
サポートなんてしない。
私がどれだけ苦しんで頑張ってきたかを知ろうともしないで、
私のその頑張りをまるでないことにするかのように、
簡単に
“神様のおかげ”にしてしまう人の言葉に
パワーを消耗する方が馬鹿げてますからね。
私もスピリチュアルな世界は肯定していますが、
思うんです。
自分の意識、心、身体の関係と一緒で
神様の力だって、
自分が目的を見据えて、
心から「やる!」と意図することでしか、
動き出して、力を貸してくれないんじゃないかと。
だって、明確な目的地もわからないのに、
「え?どんなふうに力を貸せばいいの?」
って、神様だって思うはずです。
ただ漠然と、
「幸せになりたい」
「苦しみから救ってほしい」
と願う。
自分に向き合わないで、
“悩みとは辛いもの”
であるだけのように認識するから、
悩みを丸投げするような、
すがりつくような関わり方に
なってしまうんだなと思いました。
母は「家族仲がよくなるように」
といつもお願いしているようですが、
それは結局は母が
自分の心が満たされる家族になること
しか願ってないから叶わないんです。
家族だって、それぞれまったく違う個性や
生きるペースがある。
『それぞれがただ在る』こと、
その結果できているカタチが、
その家族の自然な姿です。
それを深く理解して相手を尊重したら、
相性的に合わなくても
適切な距離をとることができるから、
ギスギスしたりしません。
『共依存な馴れ合い』=仲良しと思い違いをして
自然の摂理に合わないことを望んでいるから、
母のその願いは叶わないだけです。
幸せを感じられない原因は自分の外にあって、
自分のことは省みようとしないから、
意識や行動もかえられない。
ただ形だけ、お祈りしたり、お布施をしたりしても、
根底に自立心がなかったら、
何をしたって意味はないと思います。
神様や“教え”を盲信して鵜呑みにするのが
『意識を変える』ということではないし、
お布施や祈る行為が『行動を変える』
ということでもないです。
お布施や祈りは、
いつも自分と繋がりサポートして頂いていることへ
感謝の気持ちを伝える手段、
神の存在や教えは、
自分の気づけていないことに気づいて成長するため、
それを糧にするためにあるんだと思います。
意識や行動を変えるって、
“自分はどう生きたいか”を明確にして、
恐れや不安を言い訳にせず、
自分の可能性を信じて、
それをかなえるために必要なことを
自分に与えるように学んだり訓練したり
していくこと。
だからどんなに“教え”の通りしようと、
神様にすがりつこうと、
自分が覚悟できないと、
自分の言動がかわって、
現実は変わらないんです。
神様は地球上に実態がありませんよね。
それはつまり、現実に直接力を貸すことは
できない、しないということ。
自分の覚悟や意図があると、
「次はこうしよう」とか
「こっちを選択してみよう」とか
根拠はないけど
“こうすればいいんだ”っていうものが
降ってくるように沸き起こることがありますよね。
その通りやってみることで、上手くいったと実感したり。
神様がいるとしたら、そうやって
意識に働きかけてくれるように
後押ししたり、
なんらかのカタチで
メッセージを伝えてくれることが、
[神様の力]だと思います。
だから、何を信仰しようと、
何を信じようといいと思うんです。
ただ、「なんでも神様のおかげ」とか、
教義や教えを自分に都合のいい解釈をしたり、
表面的な解釈をして、
視野がせまくなったり、
極端な捉え方をして、
あまりにも絶対的なものとして
崇めすぎて、
“神様”を自分の軸にするような
本末転倒なことになりさえしなければ。
そしてそれを他人にも押し付けたりしなければ。
自分の人生の舵取りは
自分しかできないんですから。
他者にすがりついて人任せにしたら
それが例えどんな正しい存在であっても、
自分の望まない方に
結局進んでいくことになってしまいます。
そして、上手くいかないのを
またその誰かや何かのせいにして、
「裏切られた」
「やっぱり神様なんていない」
「信仰心が足りないのか?」
などと思ってしまうんです。
そんな人達をたくさんみてきて、
感じていたモヤモヤ、言いたかったのは
こんなことだったんだなと気づきました。
上手く伝えられないし、
良い人であるのが自分の良さだと解釈していた私は、
いつも満たされなさを抱えた人のカモ状態でした
けれど、内側には誰にも揺さぶれないような
強烈な自我があるから、
取り返しのつかないようなことに
巻き込まれるようなことが一度もなかったことは、
本当に救いだなと思います!
そのことに気づいて、ずっと受け入れられなかった
自分の頑固さも、
必要だから与えられてるんだと
受け入れることができ、
むしろ宝物だなって感謝できました
そうやって気づいたことで、
自分を犠牲にしてまで人のご機嫌をとる生き方、
なんでもかんでも受け止めてあげるのをもうやめました!
それが間違った関わり方だって気づいたから。
一時的に受け止めることが必要なときはあります。
けれど、それが癖になると、
人は安楽なものをどこまでも求めてしまう。
「あのときは優しく受け止めてくれたのに」
って。
受け止めてもらった心地よさに甘えて、
またそれをしてほしくて、
そうしてくれないと相手を責める方に意識がいくんです。
自分の方が「かわいそう」だと認識してしまうから。
一時的に受け止めるのは、
「あなたは絶対正しいって支持するよ」
という意味じゃなくて、
「しんどかったね」って、
興奮を落ち着かせるための応急措置です。
そんな状態でアドバイスなどをされても
人はなかなか冷静に受け止められないようにできているから、
そのときの最善が「受け止める」ことだから。
それなのに、
その受け止めてもらったぬくもりに味をしめて、
勘違いして甘えるな!ってことなんです
私はずっと、その応急措置でやることを
物心ついたときから他者に対して常にやっていたから、
人生の早い段階で、もうヘトヘトになっていました。
だからいつも、
他者に搾取されているように感じていました。
けれど、
〈されている〉のではなく、
私が〈搾取させていた〉んです。
自己犠牲を自ら、かって出ている感じでした。
自分の存在価値や存在意義を
そこに見いだしてしまっていたんです。
これに気づかなければ、
ずっとそんな生き方を続けていたでしょうから、
気づけたことは本当にギフトだなと思っています
これからももちろん、
人のサポートはします。
それが、私がやりたいことであることに
かわりはないからです。
けれど、他人の満たされなさや、しんどさを
背負うことはもうしません。
その役割をしていたら、身体がいくつあっても足りないし、
自分も相手もダメにしてしまいます。
大切だからこそ、
必要とあれば厳しく接する
甘えや押し付けにはとりあわない
これってすごく大切なことだなと、
親との関係性を客観的に捉えられたことで、
とても理解できた気がします。
人の話は聞きたくない、
アドバイスはいらない、
ただただ肯定してほしい、
未熟さも、甘えもまるごと全部許して、
どんなふうに振る舞ってしまっても瞬間的な反応で
悪気はないんだから受け止めてね!
私のそういう居場所になって!
そんな身勝な人に振り回されて
生きていました。
けれども、です。
お気づきかと思いますが、
ということは、
私もそういう人間だったということなんです。
自分の見ている世界は、
自分の内側を映し出したものだから
占いの中でも、
ホロスコープ(西洋占星術)
にとても親和性を感じていて、
そこには私が「母なるものに甘えて安心したい性質」
があると示されているのですが、
これを見つけたときは認めるしかないなと思いました
完璧な自分になろうとしていた私は、
「そんなとこない!」とはじめは反発していたのですが、
受け入れることで
「否定するんじゃなくて
律すればいいだけなんだ」
という意識にかわって、気負いがとれ
どんどんリラックスできるようになっています
甘えん坊の性質は生涯きっとかわらないけど、
ホロスコープにも示されてるし、自覚もしているように
それはごくプライベートなところでしか出ない顔であること、
それを向けてもいい人、
個性や魅力になる甘えの程度、
もなんとなくわかってきて、
「そんな私もいいね」って、
いい意味であきらめがついて、
自分をまるごと受け入れることが
できるようになってきました!
とりあえず、両親は私が少しでも甘えると、
甘え返して共依存になると気づけたので、
しばらくは直接的なサポートは受け取らないことにしました。
せっかく築いた距離感が、
一瞬の気の緩みで、一気に崩れます。
自分の依存状態に気づけていない人との
関係性は、それくらい脆いから、注意が必要です。
それがわからないうちは油断して、
なんども依存をぶり返すようなことを経験しました。
我が家はみんな感受性が強く、
一人一人が繊細で、
気を張って生きているから、
この人には甘えていいだろう、と思う人に
安らぎを求めてしまうんですね。
他人に対してはみんなすごく優しい分、
バランスを取るために内弁慶なんです。
そんな人達が互いの満たされないものを
満たしてくれと求め合ったら
お互いダメになることは、容易に想像できますよね
ギブアンドテイクの精神のバランス
がとれていない人は、
他者との関係が不健全になってしまいます。
だからこそ、
お互い境界線は踏み越えず、
どんなに親しい関係性でも
ある程度の緊張感(それぞれに価値観や人生があるという尊重)
を手放さないでいることが大切だなと思いました。
「家族だから」って、
なんでもありではないですよね。
何年か前、父が、
「家に帰ってくると息苦しい」
と言ったことがありました。
“あなたもその空気を作ってる一員なんだけど
まるで他のみんなが悪いみたいにいうんだね”
すごくそう思ってしまいました。
それぞれがお互い尊重しているのではなく、
「我慢してあげてる」という感覚で遠慮をするから
我が家は苦しいんです。
それぞれのペースで生きることを
お互いが尊重できさえすれば、
息苦しさから解放されることになる
それには、1人が気づいてもだめで、
できるだけ多くの人が気づくことが、
その空気を作っていくことになります。
家族に対してそれができたら、
それ以外の人に対してもそれができるから、
よく知りもしないのに他者を批判したり、
個人を特定されなければ憂さ晴らしをするように
追い詰めるような、咎めるような、
攻撃的な言動を平気でしたり、
思いついたままに、
口に出すのがふさわしいものか立ち止まって考えもせず、
口汚いことを発したり。
そんなことをしない自分に
なっていくことができます。
まずは家族、特に親との距離感を整えることで、
他者との関わり方も上手になるので、
人間関係に悩んだり
苦しんだりすることが減っていきます。
そしたらきっと、
自分のことを否定的に捉えることも
しなくてよくなり、生きやすくなる思うのです
親に感謝しているからこそ
「親の人生」を親にお返しするつもりで
親から自立し
自分の人生をしっかり生きて
自分の能力やできることで
誰かや何かの役に立って
周りに与えるように生きる
結局はそれが
命懸けで子育てをしてくれた親を
肯定することになるし
これ以上の「親孝行」はないと思うのです