☆掌編小説「そこはアウシュビッツ、そして今、靖国で」





 そこは、1944年のドイツはアウシュビッツ捕虜収容所である。ユダヤ人の烙印を押されたアンジェリーナは、素っ裸にされ、ナチスの拷問に耐えていた。それは笞刑である。

「この鞭は、かのアドルフ様が馬の尻尾から作り上げた極上のもの。畏まって鞭打たれよ!」

「ユダヤ人でごめんなさい。もう逃げようなどといたしませぬ。総統の名にかけても、ハイル・ヒトラー!」と、彼女は悲鳴をあげ、只ひたすら鞭を浴びる始末。

「そろそろマルキ・ド・サドの妖気が身についた。さあ更に加速させるぞ」と、親衛隊ゲッペルス直属の下士官は鞭の撓う様子に歓喜を抱きながら、彼女の痩せこけた肉体を酷使する。

 ガス室の様子が気になる下士官は、本日最期の餌食の気を失わせて彼女をそこに入れる。これで今日のガス室送りは、五十人目となる。

「ガス室105はこれで満員御礼。さてその覗き窓から、意気揚揚と見学することにしよう」と、ゲッペルスら一同は、覗き窓の前に鎮座ましまする。煙草や葉巻を吸いながらのガス室鑑賞は、週末の恒例行事となった。

 ここアウシュビッツ捕虜収容所には様々なユダヤ人と思しき男女が、身ぐるみ剥がされ裸体を寄せ合い生息している。そしてガス室送りを待っている。
 ドイツの敗戦濃厚なこの時期にも、ユダヤ人のホロコーストはあとを絶たない。ドイツ将校たちは、サディズムに満ちた快楽主義者ばかり。まさに、悪の表象とでも表現したくなる規律正しき恰幅の良い上官たちだ。
 「さあスイッチを入れろ」と、ガス室内に設置されたカメラから、モニターへと悶え苦しむユダヤ人の男女の裸体が蠢く。
 その室内は、まさに夜と霧とでも喩えたくなる暗さとガスのもやりが充満している。この歴史に刻まれる残虐な行為は、もう誰にも止められない。
 それは苛酷な儀式として、ドイツ人たちには知られていた。身震いする人、それを喜びユダヤ人迫害に加担する人、そしてユダヤ人を連合軍に逃がす裏切り者と、その多種多様なドイツ国民の最期の意気軒昂な姿は、やがて終戦に至りニュールンベルグ裁判によって、アメリカ主導の世界に組み込まれてゆく。
 然し今考えると、朝鮮やベトナムの様にイデオロギーの対立による戦争が起きなかった国家の分裂には、寧ろアメリカの御蔭と胸を撫で下ろすドイツ国民もいた。
 そしてその中には、勿論未だ始末されぬユダヤ人もいたのは事実である。この死する者と生き残る者の過酷な宿命に、ユダヤ人たちはその迫害の歴史を読む。

 『聖書』とは、その儀式のための必携書。教会は、礼拝の度にそれを開き読ませる。そして賛美歌を斉唱させる。

 二年前、私はその凄惨な歴史の痕跡を確かめるため、ここアウシュビッツ捕虜収容所跡にいた。スマホのカメラで、朽ち果てた捕虜収容所の外景を撮った。それは、ユダヤ人へのレクイエムの一環でもあった。

 そして、日本の靖国神社で参詣を終えた今の私がいる。もう幾星霜も経った今、いや未だ一世紀も経たぬ今こそ、あの第二次世界大戦の悲劇を繰り返さぬためにも私は聴いた。ここ靖国神社の英霊たちの声を。

(了)