◇日々雑感「健全さが罷り通る世に於ける、『多種多様性賛美』のお題目について」



「令和六年、元日そうそうの能登半島地震の救援は、順調に進んでいます。

「二日に起きた羽田空港の衝突事故は、海保の救援機に死亡者が出ましたが、日航の旅客機は、全員無事救出されました」

 この二つの新聞記事に、筆者は疑いの目を向けました。それは、真相にはほど遠いものが、内在されているのではと謂う疑問が浮上したからです。

 天災や過失事故には、常に最悪の事態を予測する危険性が秘められています。それは危機管理の項目には、既に書かれている事実ではありましょう。

 然し、上記の二つの記事には、それを余りにも楽天的に着飾った修辞が隠されている気がします。確かに、事実の集積が生み出すこの記事の言葉には、様々な困難への克服が存在したでしょう。
 結果しか読まぬ人間の横行は、どこか胡散臭い綺麗事しか生まないのです。その裏側では、途轍もない真実が隠されている筈。

 真のジャーナリズムは、そんな犠牲を白日の下に晒すでしょう。そこには、人の命もきっと絡んでいる筈。

 その積み重ねが、歴史を作り上げます。近代日本では、明治時代の二つの他国との戦争。大正期では関東大震災。そして、昭和に於ける第二次世界大戦と高度経済成長など、数え上げればきりがありません。

 そこでは、事象が事件へと発展する段階での様々な悲惨な出来事、或いは読み手を感動の坩堝に追い込む事実が共存しているでしょう。それはまさに、歴史の一ページと言っても決して過言ではない筈です。
 日頃目や耳にするテレビやラジオのニュース、そして新聞記事や週刊誌のタイムリーな事件への考察には、偏見ややっかみなどの発信者の思惑が絡みます。
 それを批評する世間の目があります。これは、メタ化されたクリティークの視線でもありましょう。
 然し、真実は恐らく一つ。それを克明に描いた黒澤明監督の名作『羅生門』。答えは一つですが、その視点により真実は曲げられます。いや、人間性の裸体が、物を言う訳です。
 その多様な視点に乗っかる批評性は、まさに多種多様。年末に、筆者の住む千葉県の熊谷俊人知事が提言した、多種多様性への肯定に、何ら異議を唱えぬ県民がいます。その中には、勿論筆者の賛同も存在します。
 それを、声高に批判する勇気も必要ないでしょう。然し、こと障害者に対する偏見では、この多種多様性に基づく見解が棚上げされます。
 筆者もそれを賛美したい。この世には善人も悪人も、適者も不適者もいる。その当人が、多種多様性を肯定するかどうか? 例えば、いつの世も存在するネオナチ。ここには、底しれぬ深い真実が隠されている気がしてならないのです。この多彩な視点と真実との相剋!
 それを筆者は、熊谷俊人知事に敢えて問いたいのです。健全さが世の中を明るくするのは、単なるお題目では? と。
(了)