◇日々雑感「葛湯とは、微熱少年にとって不可欠なおやつであります」




 我、如何にして微熱少年となりにしか? という命題に、即答できる筈もないのですが、それは体内に侵入してきたあるウイルスによるのかも知れません。然し、微熱少年はとても幸福であります。

 何故なら、物事を行動に移さなくとも、誰も文句の言えない境遇にあるからです。それは社会の規範に則った、謂わば通俗的制度の恩恵に肖っているからでしょう。

 そこで昭和レトロの記号として君臨する、おやつ「葛湯」の登場。特に母親との媒介物として教えられた、この「葛湯」を括弧抜きで語ることの有意義さを述べていきましょう。

 それは筆者の幼児体験に起因します。赤ん坊の記憶として残るこの葛湯は、その柔らかさと甘さによって、筆者の存在意義にも関わるおやつであります。何よりも、熱を冷ます効能があるのです。

 今や母親は入院中、父親は他界して妹は行方知れずの独り身に於いて、戯れるこの葛湯への思慕が、筆者をして母親の存在を再確認する意味からも、一人作る姿を他者として確認できます。

 今や午後三時のおやつは、温かいほうじ茶と葛湯にほかならないのです。この二品があれば、筆者のお腹と勿論、満足感も満たされます。それは楽しい記憶を掘り起こす作業に従事する時の、我がグッド・アイテム。

 この葛湯を午後のほうじ茶と共に不可欠なおやつと認識する時の筆者の心境は、常に新しき希望を共有する人の存在との、疎外感に苛まれます。それは、孤立無援を敢えて評価の対象とするに相応しい行為でもあるのです。

 母親に教えられた葛湯のレシピは、実に簡単なもの。片栗粉を少量、そこにお湯を垂らし撹拌する時、筆者はノスタルジア以外の生きることに震撼するのです。

 微熱少年は蠢きます。その内省からの震撼は、葛湯あってのこと。そこに母親の存在が常に絡まるのも、筆者と母親の二人が千葉市に留まっていることに、深く関わる問題なのです。

 それを虚構化することができない筆者の真実の一環として、葛湯を生きる糧とすると言っても過言ではないのです。千葉市で母親と心中するつもりで生き残る、このサバイバルゲームのひとつとして葛湯は存在します。

 この微熱少年にとり相棒とも謂える「葛湯」は、我がおやつの定番。そして、そのソフトなテクスチャーと仄かなる甘さに、我が内省は新たなる希望の糧として味わいます。

 それは母親への愛情と共に、今は千葉市に住まぬ他界した父親と嫁に行った妹を不可視の領域におきます。

 そして葛湯は、溢れる孤絶と表象の奈落に陥るべき老年に差し掛かった筆者を、微熱少年と仮定する母親との黙契を成立させる記号にほかならないのです。

 まだ生きられるという感慨を催すこのほうじ茶と葛湯の共存共栄が、筆者をして快楽の味わいへと誘う記号として君臨するのも、遠い日の母親との、我が幼年時代の共有物の記録としてここにしたためた次第。以上。

(了)