「もう私は耳から何も聞きたくない」
と、耳に大量の綿を詰めた彼女は、偽のツンボを装いつつ、手話の心得を試しながら、男たちを翻弄していた。それは、彼女の新しい生き方の模索だ。
「男ってバカね。私がツンボだと知ったら、手話を知らないから、紙に口説き文句を書いて力づくでホテルに連れてゆくの。後はお決まりのセックス。何と他愛ない戯れなのかな」
「それは貴美子が無防備だからさ。普通の女には貞操観念が働いていて、どこかで歯止めをかける筈だよ」と、和雄は着ていた白いガウンを脱ぎ、彼女にキスをする。
抱擁を交わしいつもの男とは違う態度で、彼女は愛される。そして、互いが迎える虚無への供物とも謂えるオルガスムへ。果てた後は、ふたりともベッドで煙草に火をつけ合う。
「耳の具合はどうだい」
「耳で聞きたくない台詞吐く男たちってサイテー。だから私は耳に綿を詰めるのよ」
と、言った私はパーコレーターで、深夜のコーヒーを入れる。そして、再び耳に綿を入れてゆく。
「聴覚なくなったは」
コーヒーが出来上がり、それを飲んだ彼女は身体に異変を催す。そして、彼女は何と綿人間第1号となった。
姿見を見ると、頭から足の先まで綿で出来上がった人間だ。それはジェンダーの区別も付き難い、まるでマシュマロマンのようだ。
「おいお前、今何をした」
と、彼が発すると、彼女は何と口から綿を大量に吐き散らす。そして、彼もあっという間に綿人間と化すが、呼吸できずに窒息死。
「私、遂に綿人間第1号になったのだわ」
と、白い手提げバッグを持って、夜の帳の降りた都会の車道の中央を歩いていると、彼女を見た車は全て避けるので、歩道を越えて、店や家に激突するのだ。
彼女は綿をまき散らしながら歩く。車道には綿が積まれてゆく。まるで大雪のように。
そして彼女は、東京タワーを登る。恰もそれが、愛する男のペニスかのように。噴いた綿は、下に落ちてゆく。次第に赤い東京タワーは、白い夥しい綿の意匠をつけ、今や白一色となった。
「おい、電波が可笑しいぞ。スマホで、テレビが見れなくなった」
と、周囲の若者たちは、仕切りに喚き出す。
「然し、あの綿人間どこまで登ってゆくのだろう」
と、彼らはスマホのシャッターをきる。或いは、ユーチューブ用に動画まで撮りだした。
こうして綿人間第1号は、東京タワーの天辺まで登り、手に持った拡声器でこう怒鳴る。
「深夜に生きる若者たちよ。私は少し前までは、ツンボを装っていたわ。だが今は、綿人間第1号となりました。耳に綿を詰めすぎたためね。だから、あなたたちの声が聞こえない。ねえお願い。私のために暴動を起こそうよ、革命興そうよ」
と、彼女はシュプレヒコールを上げる。それに賛同した若者たちは、コンビニに入り、あるもの全てを強奪してゆく。
「そうよ、皆んな行動あるのみ。それが、あなたたちの未来を決める」
と、そこにヘリコプターに乗ったスワットが、綿人間第1号に銃弾を浴びせる。白い身体が、あっという間に血で染まる。
朝日が登り初めて、彼女も真っ赤に照らされる。この同色に溶け込んだ彼女は、断末魔の叫びと共に、東京タワーの天辺から都市空間へ、垂直に降下してゆく。
道路に伏している綿人間第1号に、若者たちは手を貸そうとするが、彼女、そんな手を振り払い、仰向きとなり無言の微笑みを繰り返しているかに見えながら、遂に口からこう発した。
「永劫革命など実現できぬのが、この日本。だから私は、誰の意見も聞きたくなかった。綿を耳に詰めていると、こうして綿人間第1号になった。でも聞いて欲しいの。私は、遂に羽根を失った白鳥になったのよ。この白い羽毛を、あなたたちにあげるは。それで身体を暖めて! 私の遺品代わりの羽毛を」
若者たちはその羽毛を巻き上げながら、コンビニからの盗品で酒宴を上げる。死んだ彼女を白い棺に入れ、道路の真ん中に置き、彼らはそれを囲んで、聖書の言葉を発してお祈りを捧げるのだ。
朝日はそんな彼女に、弔慰に満ちた光を浴びせる。
それは彼女の変形した姿、つまり綿人間第1号の、変わり果てた死体を弔う早朝の儀式であった。
(了)