◇日々雑感「『どこに行っても同じ』とは、虚しさと愉しさが同居する不可思議な空間ではありましょう」



 今宵も更ける夜を愉しむには、最適な天候。それはどこにいても同じことと、高を括ります。この不順とも謂える曇天に迷うことなく、筆者は「どこに行っても同じ」と謂う、このフレーズに促されます。

 実は「どこに行っても同じ」とは、全ての地球人に謂えること。例え東京でも大阪でも、或いは沖縄でも北海道でも同じ環境だと謂う意味。戦争も平和も、恐慌も災害も「どこに行っても同じ」と謂う意味。

 それは「環境次第で、どんな人間の心理も変わりますか?」と謂う命題を含んでいます。ここには、ジェンダーなどお構いなしの傍若無人な振る舞いには無縁な、礼儀正しき意志を通した心理が働きます。

 それは、性格から遠く離れた「どこに行っても同じ」的振る舞いを催します。ここに、一個の人格者が成立します。それは腐敗を知らぬ警察官や政治家にも通じる、意義深い姿勢とも言えるでしょう。

 中心だろうと周縁だろうと、聖人君子にとっては、「どこに行っても同じ」の概念が窺えます。それは作家・志賀直哉氏の『正義派』にも通ずる、ウルトラマン的な虚飾を剥ぎ取った裸の姿であります。

 虚しさと愉しさの同居する時空間とは、「どこに行っても同じ」とは、虚構から遠く離れた地点で通用する概念とも言えましょう。それは、リアリストに必要な教訓とも言えるのです。

 これは決して、説教の部類に属する定義ではないのです。「どこに行っても同じ」とは、グローバリズムのバリエーションとも受け取れます。それは、世界共通のエスペラントとして共通する概念となる筈です。

 これは現在、日本人としてノーベル文学賞に最も近い位置に存在する、村上春樹氏の処女長編『風の歌を聴け』の映画化で、ジャズ喫茶のマスター扮する坂田明氏に宣う小林薫氏演ずる主人公の台詞であります。

 「どこに行っても同じ」が世界共通の言説となる時、ウクライナに侵攻するロシアのプーチン大統領も、ミャンマーの軍隊の指揮官も、平和に収斂するかも知れません。それほどインパクト溢れる、これは一見不可思議だが決して虚偽ではない、全うなヒューマニズムに満ちた空間です。

 それを否定する人間には、居場所を限定するトポスが待っています。例えば、精神病院や刑務所、或いは警察や軍隊と言う規律正しきトポスへの誘いです。

 「どこに行っても同じ」とは、それほど寛大でありながらも、偏向のカテゴリーに当て嵌まる定説だと、広範に流通することを願い、この拙文を終えたいと、筆を置く次第。以上。

(了)