とどのつまり、人間が死を観想する作業へ従事する事は、アリストテレスを持ち出すまでもなく至極自然な思考として君臨する筈。齢56歳ともなれば、且つ不治の病を患う身となれば、何時でも死を迎える事の準備は出来ている筈。
人間にとって死とは、生誕よりも極めて困難なイニシエーションでもある。誰もが体験するこの困難を克服する時の決着(ケジメ)や懺悔は、幾何かを自己意識の中で構築する時、人は取り敢えず遺書の存在を確認するだろう。
是枝裕和監督作品『ワンダフル・ライフ』は、そんな死を目前とした人々の追想をビデオ化し温かく看取られる人々のお話。天界が覗ける病院内の天窓の存在がひたすら強調され、其処にこの人々の昇天への入り口として機能する表象作用の働きが認めらる佳作ではあった。
このビデオ製作をエクリチュールの範疇では自伝として認識させるのが、この映画の眼目。その視点が絶えず詩情を殺し静謐なる即物性で監督以下スタッフやキャストが臨んだのも、死の持つ儀式性と宿命を露呈する為の極めて残酷なリアリズムであったと記憶する。
人間の生も死もたったワン・アンド・オンリー。其を重々しく考察する時代が、今では明るい死に方という軽妙洒脱さをも含有した時代の到来。其は、高齢化社会の必然的な志向でもある。この視点こそが、劇場社会の一つの特性として君臨するだろう。人の死とは、誠に儚い夢への扉のメタファとも謂える。
此は筆者の死生観とも絡んだ、極めてスピード社会の思考でもある。其は叙事的に散文化されてきた現代的風土の醸成が、死と言う通俗的メロドラマに他者性を補う事で発揮される逸脱した視線の獲得でもある。
此は実に個人的な体験として経験される、まさに一期一会の出来事ではある。生も死も唯物史観から眺める時の儚さは、筆舌に尽くしがたい程のリアリズムを催す。其が自伝の定義である。それこそが、人間の生きた証なのでは?
(了)