生前の父の口癖が、「人間の8割は何らかの障害者」であった。このパラリンピック・スポーツ(後はパラスポーツと略する)への関心を高める草の根運動を「OPEN千葉」が発信した様々なイベントは、健常者と障害者の垣根を越えた地点での会合としてとても充実した内容である。
    筆者も近年、両足にリウマチや線維筋痛症等を患い、時に車椅子に乗り病院通いしている。謂わば、パラスポーツ予備軍と言ったところ。
    然しこれといって迫害を受けるでもなく極めて自由闊達に動ける時は、杖をつきながらも電車やバスで積極的にアウトドア・ライフに励む。周囲のうるさ型の偏見何のその、常に欲望に任せ金銭と命が続く限り、病と共に偏見に満ちた世間と闘い続ける所存ではある。
    このパラスポーツ・アスリートのグループ・ショットには筆者の居直りとも受け取れる先述の言説が、如何にも不健康極まりないと攻撃するような健全さを保ちつつ、健常者との隔絶を踏破する意気込み溢れる笑顔が満ちていよう。
    確かに障害者特有の甘えの構造が跳梁跋扈する世界は、どう考えても不健康極まりない。然し、好きで障害を持った人間なんていない筈。それを適者生存の立場から抹殺しようという思想の持ち主には、ヘドが出る位の怒髪衝天を催すのも又事実だ。
    人間分相応を楽しむという風潮が幅を効かせる今の世の中に、敢えて奢侈に流れる生活を促す障害者が居ても良いのでは?    其が余命の限られた人間であれば、尚更の必然性が出るのは人間の弱さでもある。筆者は謂わば、不健全極まりない存在であることに極めて自覚的である。其はどこか、自虐的な反面教師の要素を併せ持っている。
    このパラスポーツを広める団体「OPEN千葉」は筆者のような自堕落な思考を持たぬ、極めて健康な思考に満ちた人々であろう。然し世の中、反面教師がいないと修正主義の要が声高に叫ばれぬ。其は筆者がニーチェから学んだ、まさに善悪の彼岸に生きる宙吊りの人間だからこその主義主張と受け取って頂きたい。たまには障害者だって、色悪を演じる必要もあろう。
    障害者の人権擁護の要からも、この多様性に富んだ見解を健常者の方々はよく酌んで頂きたいものだ。
(了)