この現代「夫婦善哉」的老夫婦を叙述する作者は輪廻転生で生まれ変わっても同じ夫婦として、「今度は世界一仲のいい夫婦になろうね」という言説により、脳梗塞で逝った妻に対して願って出す声と祈りで訴える。この夫の妻に対する健気さは、現代社会が喪失したかに見える夫婦愛の一端を示し実に心地よい。
    老夫婦と謂えば、小津安二郎監督の不朽の名作「東京物語」にその範が窺える。息子の葬儀に広島・尾道から、大都会・東京に辿り着く老夫婦の感動的な一場面。
    東京を彷徨するこの老夫婦が行き場所を失い原節子氏扮する夭逝した息子の嫁の家を捜す時、夏の日照りに寺社の入り口で不覚にも腰を下ろす老妻。彼女を励まし水を飲ませ立たせる老父。この二人の何気ない都市空間での愛の確認を、小津監督は極めて冷めた他者の視点から少し引き気味の画面で捉える。
    ここには時代の隔絶としての東京の復興と戦後の復興途上の疲弊した地方から来た老夫婦に齎らされる当惑と、病の発症の原因が恰も田舎と都市が及ぼす差異性に収斂する時、小津監督は其を殊更荒立てる事なく都会の一風景として極めて日常的に処理する。然し、此が原因となり妻は亡くなる。
    この「夫婦善哉」は、東京という魔都に蹂躙され理不尽にも崩壊してしまう。其処には、喧騒と群衆という現代的風土が及ぼす影の部分である病の露呈がある。
    このコラムの「次は世界一」では、老夫婦の仲の良さを実にコミカルなタッチで綴る。其は小津監督の戦後映画がほぼ同一の主題体系を伴う事で、其処で展開する一貫した手法とは対極に位置するだろう。
    娘を嫁がせた老父の喜びと孤独が、花の ない壺がやがて白い骨壺へと変容したり、妻を失った一人の老父が剥く赤い林檎、又は結婚式後に無人の部屋を写す鏡の不意のショットで表象させる事で成立する亡妻のメタファとして成立する。そしてその差異は、このコラムでは亡妻の写真を手にする事で、只ひたすら謝り涙する老父の視点のみであることだ。
    即ちこの格差は恐らく筆者の視点だけで語られるエクリチュールに比して、映画では様々な表象物に仮託させる事で老父の孤独感を煽る事にあろう。
    毎朝、神棚に妻と「我が妻は日本一、素晴らしい」妻も「素晴らしい」と拝み合った記憶が夫婦円満の秘訣であったと実に鮮明に綴られる時、この夫婦の視界は小津の冷めた他者の視線とは異質な日常的風景に収斂する。ここには「夫婦善哉」が催す主観的エクリチュールと、映像的他者の視点が生むメタファの露呈の相違が窺える。
    ものを表現する時の所作が、様々な視点によりすり変わる。其は私小説という媒体と、他者性を纏う映画が宿命的に背負わなければならぬ表現形態の差異性であろう。
    然しいずれにも共通するのは「夫婦善哉」とは、夫婦が手を携え互いを労り合いながらの歴史性に還元する事であろう。そして其処には、来世でも同じパートナーと添い遂げたい輪廻転生の欲望が犇めいていよう。
(了)