車椅子に近い筆者の気苦労は、まだ見ぬ映画のDVDの蓄積を憂う事にある。批評空間を閉ざす事なく見続ける持続力に、赤信号が照らすまでの徒労とも思える映画力学に身を任せる事の有意義を敢えて問いたい。
   其は義務でもなければ責務でもない。山登りと同じ言説「其処に山があるから」ならぬ、「そこに映画があるから」。
   映画とは書籍とは異質な視覚的人間を満足させる、突き詰めて謂えば娯楽の一言に尽きる。如何に観る人の感性に応える資質を備えているかに掛かっており、其は映画美学を問う人のさすらいを絶やせぬ、まさに映画が担った宿命とも言える。
   故に、映画は犯罪者だと仮想できる。或いは、共謀罪に近い罪人と断じても結構。そんな犯罪者と数時間同居できる空間は、幸せに溢れている。批評とは、その快楽を味わう為の再認識の玩具に等しい。真の映画人とは、そんな幼児的特権と戯れる輩。故に筆者もその部類に属する。
   映画とは現実から離脱した幼児的特権を奮う、まさに玩具的存在だ。
(了)