銭湯の数がめっきりと減った。あの人情溢れる社交場が、年々少なくなるかと思えば、悲しくなる。然しその代わりに、今時のカフェ・サロンはフリースペースとしても機能し、イベント等多様なる形態で活用され、その土地では名前が知られ集客力もついてきた。
そこで江戸時代から一般的な社交性溢れるトポスとして、日本では滑稽本としても著名な床屋と銭湯、そして茶店に女郎屋、或いは車屋(駕籠屋も含む)にも、明治以降では、筆者の故郷(紀州)出身の哲学者・南方熊楠氏の床屋と銭湯が夙に有名だ。
今や団地やマンション、そしてアパートという生活形態が蔓延してコミュニケーション能力の貧困さが、その町の共同体的視点を失いがちにした。然し今では、フリースペースやカフェやブックサロンの出現により、横の広がりを持ったお店が目立ってきた。
筆者の好みとしては、江戸時代からの床屋や銭湯での人情話に固執したくもなるものだが、時代の要請からか、特に銭湯の数の減少は残念至極である。恐らく維持費の高騰ともあいまり、経営するには厳しい時代でもあり、スーパー銭湯の台頭で待場の銭湯は、まさに危急存亡の時だ。
そんな中のこの記事。やはり好き者は、いつの世にも存在する。なんとも逞しい限り。彼等にとっては、銭湯とは個人だけのものではなく、日本の故郷として位置付けられているのだろう。
あの仄かな湯気の向こうの富士山の絶景を望みながら、熱燗のお銚子を一本飲み干す時の格別さは、日頃体験できぬもの。
或いは夏場なら、子供にはラムネや牛乳を与え、父親はガンガンに冷えたビールを飲み干し、共に帰宅する時の家族関係は、ビールのように常に冷えたものではなく、逆に暖かい母親の「お帰りなさい!」の一声が待っているのだろう。
此は昭和30年代の日本の風景として、極めて重要であり、今またそのレトロが再ブーム化されれば、日本の沈滞したこの経済的不況打開の一助にもなるのでは?
そんな思考巡らす、実に有意義な記事に感謝致します。筆者もこの銭湯仲間に入りたい! 其こそ平成の「浮世風呂」と謂っても、決して過言ではないであろう。
(了)