1970年前後の灯台下は、決して暗くはなかった。寧ろマイルスの『ビッチェズ・ブリュー』に端を発した電化楽器の導入をライヴ演奏にも活かした、実にアグレッシヴなライヴ盤がセールスを占めていた。
   今回を含め白熱の3回の米西海岸の老舗ライヴ・スポット『ライトハウス』盤を、ここに評する。
   今夜はジョー・ヘンダーソン(ts)率いるセクステット。その陣容は、ウディ・ショウ(tp,flh)ジョージ・ケイブルス(elp)ロン・マクルーア(b,elb)レニー・ホワイト(ds)トニー・ウォーターズ(conga)。
    いきなりのラテン調のハードなナンバー「カリビアン・ファイア・ダンス」は、オープニングを飾るに相応しい観客を興奮の坩堝へ追い込む。ジョーのこのオリジナルは、カリブの熱い儀式の始まりとして最適の曲。ジョーもウディも、新主流派の闘魂逞しいソロを応酬する。
    強靭な憂いの様相を呈する「リコーダ-ミー」のジョーのソロは、スパイラルが醸す停滞と抜けのよい鉛直の構図が、どこかゲッツのボサノバの情熱と酷似するナンバー。ウディもフレディを超越せんと、実に煽る事。リズム隊の変拍子への貢献度も、多いに光る。
    「ア・シェイド・オブ・ジェイド」。実に峻厳なハイ・テンポ。ジョーのソロは荒々しさと共に反復される突き上げるフレーズが、ロリンズのモールス信号を彷彿とさせる力学を辺りに波及させる。此にウディも便乗するかのように、熱気溢れるソロを繰り広げる。この若さに裏打ちされた演奏は、かのマイルスの度肝をも抜いた。ウディは常に直情的なシンプルさに、怒涛のフレーズで追い討ちを掛ける。
   精度溢れる「アイソトープ」の、テーマを解体させるに相応しい凄絶な出だしに圧倒される。ひたすら横断的に分節化されるジョーのアドリヴには、ショーターのスキゾとは一線を画す荒唐無稽さの露呈が、閃きの直情として聴かれる。この寸断と破天荒な展開は、まさに筆舌に値する。
   エレピが彩りを添える「ラウンド・ミッドナイト」のテナーに聴かれる抑制と拡散の度合いは、音に強度を保たせるべく独自の異空間を形成する。そしてロンの強靭なベースワークとの対峙から全ての音を収斂させる音楽の枢軸が、柱としてこのライヴの白眉を示唆する。1970年のアフロ志向が、モンクを新しく脱皮させる。
   リーダーの名を冠する「モード・フォー・ジョー」は、まさに彼のジャズに対するコード批評であろう。ここではレニーのリズム・チェンジが催すアレンジが、一皮むけたジョーの意気込み溢れる新しい土壌を開拓する事で、グルーヴなドライブ感を聴き手に煽る。モードとは1970年というジャズの新しい夜明けの構造体系として君臨し、その渦中にジョーは確かに存在した。
   彼には珍しいファンク志向のナンバー「イフ・ユーアー・ノット・パート・オブ・ザ・ソリューション、ユーアー・パート・オブ・ザ・プロブレム」。当時のハービー・バンドでのファンク志向が、ジョーに作らせたとおぼしきこの曲は、ブラック・ファンクの頂点の一つとも謂えるだろう。
   意味深なタイトルが、エイト・ビートを解決の糸口とみる。1970年代のアメリカ音楽の一翼を担うブラック・ミュージックへの一つの解答として、ジョーは早くも時代への早熟な一面を窺わせる。ここには未熟と成熟の狭間に位置する彼らの、時代に対する熱い同胞らへのメッセージが息づいている。
   そして彼の師にもあたる、ケニー・ドーハム作曲の「ブルー・ボッサ」。ケニー独自の哀愁を覗かせつつも、此はまさに時代が要請した「ブルー・ボッサ」。其はアドリヴ一つ聴いてもポストモダンの先駆けを暗示させる分節化されたフレーズの断片が、ジグソーの如く構築される時の解体と再構築のメソッドの快楽をこの6人は熟知しており、真性「ブルー・ボッサ」はスタンダードを懐柔させ、そして転生させるに足る素材である事を聴かせるに相応しいナンバーであり、其は彼の師ケニー・ドーハムへの一つの解答として、聴衆との別れの儀式にも似たエンディングであろう。
   そしてクロージングは、名曲「アイソトープ」のテーマのみ。
   これぞ1970年代のマイルストーンのジョー・ヘンダーソンを語る上で、決して欠かせぬ一枚でもあろう。
(了)爆笑