サイバー地方文学の拠点となるかもしれない「マチともの語り」
地域主義を旗印にした、ご当地もの語り連載サイト「マチともの語り」。
有名ブログ「BLOG::TIAO(眺)」
http://blog.readymade.jp/tiao/
(IEブラウザではなくOperaなどの非IEブラウザで見たほうがスムーズに見やすいかもしれない)
を運営している福岡のMAO氏(中国留学の経験者)が、先だって地域主義を旗印にした、ご当地もの語り連載サイト「マチともの語り」を立ち上げた→
http://tiao.jp/blog/
☆所信表明プレスリリース「あなたのマチにはもの語りがありますか? 」
http://tiao.jp/blog/item/14
人はなぜ、こんなにも「もの語り」が好きなのだろうか、誰もが「もの語り」が好きで好きでたまらないらしい。
わたしたちは毎日の暮らしの中で、空気のように、水のように、食べ物のように、たくさんのもの語りを消費しながら暮らしている。
話題の映画、評判のテレビドラマ、面白かった本、人気のゲームなどなど、こうしたもの語りの多くはエンタメ(娯楽)として生み出され、提供されているのだが、トウキョウ以外の人たちにとっては自分が暮らしているマチや土地がその舞台になることは滅多にない。
滅多にないから、たまにそうなるととても素晴らしいことのように思え、ちょっと自慢気に胸を張りたくもなるのだ。
今では、もの語りはメディアの専売特許のようになっているが、もともともの語りはもっと身近なところにあったはず。ムラやマチといったコミュニティの中だけでなく、祖父母から孫へ、親から子へと語り継がれてきた口承としてのお話がもの語りの原点で、わたしたちは本来、豊かな自分たちのもの語りを持っていたのだ。しかし、近代つまり明治以降は、土地と強固に結びついていた地域社会が解体され、新たな産業という社会の中に人びとを再編成していった。旧弊を打破して、新しい思想を身につけることが奨励され、そのためには多くの国民にそれを伝えるためのメディアが必要となった。出版や放送などはそういった社会的な要請があって生まれたというルーツをもっている。
それまでイエや、ムラやマチ、おクニというコミュニティの中で共有されていたさまざまなもの語りの多くは捨てられ、残った一部も標準化されたもの語りへと統合され、さらに口承で伝えられたもの語りよりも、文学が高尚なもの語りとして登場してくる。もの語りは炉端や寝もの語りで聞くものから、作品として鑑賞する教養へと出世していく。それと引き換えに出版や放送という新しいメディアを通じて全国均質な大量のもの語りが娯楽として流されるようになったということ。
では、わたしたちへメディアを通して提供されるもの語りはどんな明示的、暗示的なメッセージやイメージを伝えているのだろうか、と考えるとわたしたちが今、消費しているもの語りの大部分は東京やアメリカで創られ、送られてくるもの語りであることに気づく。これは、東京やアメリカにメディアや情報産業が集中しているから仕方ないことなのだろうか。次から次へと与えられるもの語りを、同時代のもの語りとして受け入れて暮らすことはあたりまえのことになっているのだが、それは誰かがある目的をもってつくったもの語りかもしれない。
わたしたち自身の暮らしを豊かにするには、お金やモノだけでは不十分ではないだろうか、そこには何かが欠けているということを考えていたときに、地元のもの語りの不在に気がついた。旧からなかったのではなく、いつの間にか消えてゆき、忘れ去られ、同時に新しいもの語りを生み出す能力も失ってしまったのではないか。
イデオロギー、国家などの体制のもの語りは、すでに個人に夢や目標を与えるという役割を果たせなくなり、企業や学校という身近な社会も競争原理が中心に座って人に安心感や一体感を感じさせることはできない。地域では近所のことに無関心となり、最後の砦となるべき家庭ですら一家が一緒に食事をするという団欒を失なっている。
わたしたちが実感できる暮らしとはコミュニティの中にある。このコミュニティの豊かさというのは、誇りや希望というものでしょう。それは、コミュニティが自らの豊かなもの語りを持っているかどうかということと言えないだろうか。もの語りを持つということは、もの語りを共有するということ。与えられたもの語りではなく、失われたもの語りを取り戻すこと、さらに新しいもの語りを創りだし、共有することで形成されるコミュニティ。
あなたのマチにはもの語りがありますか?
ご当地主義のもの語りって何か可能性を持っているような気がしませんか?
有名ブログ「BLOG::TIAO(眺)」
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http://tiao.jp/blog/item/14
人はなぜ、こんなにも「もの語り」が好きなのだろうか、誰もが「もの語り」が好きで好きでたまらないらしい。
わたしたちは毎日の暮らしの中で、空気のように、水のように、食べ物のように、たくさんのもの語りを消費しながら暮らしている。
話題の映画、評判のテレビドラマ、面白かった本、人気のゲームなどなど、こうしたもの語りの多くはエンタメ(娯楽)として生み出され、提供されているのだが、トウキョウ以外の人たちにとっては自分が暮らしているマチや土地がその舞台になることは滅多にない。
滅多にないから、たまにそうなるととても素晴らしいことのように思え、ちょっと自慢気に胸を張りたくもなるのだ。
今では、もの語りはメディアの専売特許のようになっているが、もともともの語りはもっと身近なところにあったはず。ムラやマチといったコミュニティの中だけでなく、祖父母から孫へ、親から子へと語り継がれてきた口承としてのお話がもの語りの原点で、わたしたちは本来、豊かな自分たちのもの語りを持っていたのだ。しかし、近代つまり明治以降は、土地と強固に結びついていた地域社会が解体され、新たな産業という社会の中に人びとを再編成していった。旧弊を打破して、新しい思想を身につけることが奨励され、そのためには多くの国民にそれを伝えるためのメディアが必要となった。出版や放送などはそういった社会的な要請があって生まれたというルーツをもっている。
それまでイエや、ムラやマチ、おクニというコミュニティの中で共有されていたさまざまなもの語りの多くは捨てられ、残った一部も標準化されたもの語りへと統合され、さらに口承で伝えられたもの語りよりも、文学が高尚なもの語りとして登場してくる。もの語りは炉端や寝もの語りで聞くものから、作品として鑑賞する教養へと出世していく。それと引き換えに出版や放送という新しいメディアを通じて全国均質な大量のもの語りが娯楽として流されるようになったということ。
では、わたしたちへメディアを通して提供されるもの語りはどんな明示的、暗示的なメッセージやイメージを伝えているのだろうか、と考えるとわたしたちが今、消費しているもの語りの大部分は東京やアメリカで創られ、送られてくるもの語りであることに気づく。これは、東京やアメリカにメディアや情報産業が集中しているから仕方ないことなのだろうか。次から次へと与えられるもの語りを、同時代のもの語りとして受け入れて暮らすことはあたりまえのことになっているのだが、それは誰かがある目的をもってつくったもの語りかもしれない。
わたしたち自身の暮らしを豊かにするには、お金やモノだけでは不十分ではないだろうか、そこには何かが欠けているということを考えていたときに、地元のもの語りの不在に気がついた。旧からなかったのではなく、いつの間にか消えてゆき、忘れ去られ、同時に新しいもの語りを生み出す能力も失ってしまったのではないか。
イデオロギー、国家などの体制のもの語りは、すでに個人に夢や目標を与えるという役割を果たせなくなり、企業や学校という身近な社会も競争原理が中心に座って人に安心感や一体感を感じさせることはできない。地域では近所のことに無関心となり、最後の砦となるべき家庭ですら一家が一緒に食事をするという団欒を失なっている。
わたしたちが実感できる暮らしとはコミュニティの中にある。このコミュニティの豊かさというのは、誇りや希望というものでしょう。それは、コミュニティが自らの豊かなもの語りを持っているかどうかということと言えないだろうか。もの語りを持つということは、もの語りを共有するということ。与えられたもの語りではなく、失われたもの語りを取り戻すこと、さらに新しいもの語りを創りだし、共有することで形成されるコミュニティ。
あなたのマチにはもの語りがありますか?
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