今回はここまで二か所捜索した在郷軍人会射撃場の資料集め中に判明した毛呂山町の射撃場を捜索しに行きました。

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<調査中の新発見>
この射撃場は、過去飯能と吾野の二か所を探索した在郷軍人会の射撃場の追加調査を行っている最中、埼玉県文書館の資料を検索している際に見つけた一個の検索結果から存在を知ったものです。
その資料は帝国在郷軍人会入間郡毛呂山町分会常設射的場ノ設置期間延長許可ノ件というもので、昭和20年5月に作成されたものです。(こちらについては未閲覧、閲覧しましたら追記します。→閲覧しました(2/8))
2/8追記
文書館にて上記の文書の閲覧をしました。
端的に延長期間が書かれているだけで、設置許可の年などは判明しませんでしたが、延長期間が昭和30年の4月末までとなっていました。
単純に10年単位で延長されているものと考えると昭和10年頃に設置されたのではないかと思われますが詳細はわからずじまいでした。
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さらに調査を進めると、毛呂山町史において当地の概要が写真とともに掲載されていました。その内容を転記します。
【中略】
このような時代背景のなかで各村とも軍事思想の普及が行なわれた。山根村では、既に昭和のはじめ軍人分会(分団長串田市太郎)が工費二,〇〇〇円、労力奉仕八〇〇人によって竜ヶ谷山麓に実弾射撃場を新設した。三八式歩兵銃を常備し弾薬の払い下げを受けて、村の在郷軍人を訓練し、また青年学校の利用に提供するとともに、広く他町村の軍人分会等に貸与して射撃技術の向上につとめた。
【後略】(毛呂山町史 昭和53年1月発行 編:毛呂山町史編さん委員会編 P806・807より転載))
山根村は1939年に毛呂山町に合併されており、それ以前(おそらく日華事変のあった1937年ころ?)に作られたことが判明しました。
竜ヶ谷山は埼玉医大の西側に位置しており、現在ではそのほとんどが鶴ヶ島ゴルフ倶楽部として造成されていますが、雷電神社が建立されている山頂付近はそのままの状態で残されています。
この山の山麓ということで遺構がある可能性は低いかと思いましたが、一か所怪しいポイントがあったためそこへと調査に向かいました。
(補足:軍人分会長として記述されている串田市太郎氏は、農園としてゆずの栽培を発展させ、毛呂山町が名産地として知られる礎を築いた人物としても知られています。)
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<擬定地の調査>
怪しいと踏んだポイントは阿諏訪川にかかる鶯橋のたもとに広がる平場です。(今昔マップから加筆)
町史に掲載された写真と山の稜線が近く感じたことと鶯橋と書かれた親柱が非常に年季が入っていることからポイントとして定めました。
しかし実際に現地調査をしてみたところ平場から山際まで100m弱と今までの射撃場より100mほど短く、親柱も昭和27年に建てられたものであったため疑問が生じました。
近くに散歩中の初老の男性がいらっしゃり、射撃場について聞き取りをさせていただきました。下記にその内容を記します。
  • お伺いした方は60代前後
  • 射撃場の事をご存じであり、場所は現在の埼玉医大国際医療センターの北側
  • クレー射撃を行っており、40年ほど前にはクレーの陶器が散らばっていた
  • この近辺に射撃場があったとは聞いたことがない
  • この橋は現在老人福祉センターのある場所にあった学校への通学路であった
  • この先の雷電神社付近の民家の人に聞いてみると詳しいことが分かるかも
いきなり射撃場があったとの証言に色めき立ちましたが、内容からすると目的のものではなく前回の東京五輪に合わせて作られた近代的なものである可能性が高いと感じました。(2/6 詳細が判明しました。)
しかし、この先のヒントとなる内容を聞くことができ、雷電神社へと向かいました。
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2/6追記
お伺いしたクレー射撃場について調べてみると、今昔マップのごく一部の版に記載されているものを発見しました。
聞き取り情報通り、現在の埼玉医大国際医療センターの敷地とほぼ同じ位置に開設されていたようです。
文化新聞のアーカイブにて国際射撃場と検索してみると、いくつかの情報がヒットしました。以下にその変遷を記します。
  • 1973年2月、日高商事株式会社により射撃場、プール、ゴルフ打ちっぱなしなどの施設を有する日高国際スポーツクラブを開業。1,2
  • 1977年10月、日高町農協が日高商事に開設費用として融資した約12億円が経営不振により回収不可能となっていることが判明。担保とされている施設の土地を売却し、ごみ埋め立て用地とすることで回収を図るも地元や町議会からの反発により頓挫。3
  • 1978年4月、日高町農協は霊園誘致を目論み地元住民と近隣の先進霊園を視察。4
  • 1981年6月、日高町議会において跡地の利用計画に関する一般質問がなされる。工場用地とするために用途変更が行われたと記されている。5
  • 1984年7月、伊藤忠商事と熊谷組が跡地を工業団地として造成することを発表。1986年に造成完了予定。6

デジタル化されている内容が1984年までのため、工業団地計画から国際医療センターが開設されるに至るまでの経緯は確認できませんでした。しかし国土地理院の航空写真を見てみると1989年の時点でも造成が行われている気配がなく、1992年にようやく造成が開始され、2002年には保健医療学部の学部棟と思われる建物の工事が開始されていることからこの年代に計画変更があったものと推測されます。

また、ツイッター上の未確認情報ですが、射撃場がモトクロスのコースに転用されたという記述(注:航空写真からもそのような痕跡を見ることができる、インターネットアーカイブ上にて情報源のHPを発見)や、特撮物の撮影地として使われていたとの情報も発見しました。

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<竜ヶ谷山と雷電神社>
竜ヶ谷山(りゅうがいさん)は標高205mで、中世期には竜ヶ谷城が築城され要害として機能していたと伝わっています。
先述の通りほとんどが造成されていますが、山頂である一の郭に雷電神社が建立されていたことから、この付近はそのままの形で残されています。
竜ヶ谷山の全景です。
ゴルフ場の敷地内ですが、雷電神社へと参拝する場合には中へ入ることができ、そのための道も町道として指定されています。
要害の名の通り急な階段を上り詰めた先に鳥居と社務所、舞台があります
山頂には小さな社が二つ並んでいます。
山頂からは毛呂山の街を一望することができます。
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<ついに位置の特定、発見へ>
雷電神社へと向かう前に軒先で作業をしている女性の方がいらっしゃり、こちらでもお話を伺ってみました。
すると確信的な情報を得ることができました。その内容がこちらとなります。
  • お伺いした方は70代くらい
  • 射撃場があったことをご存じ、場所は老人福祉センターのある場所の裏側
  • 外からこの土地へと越してきたため詳しいことは分からないが射撃場があったことは聞いている
  • 現在はゴルフ場に造成されている
先程伺った内容とは全く異なり、この山の麓であることから目的の物件であることが確信できました。
また、先程の男性から伺った老人福祉センターのある場所に学校があったということ、町史の青年学校の利用に提供という記述から辻褄が合います。
残念ながら造成に飲み込まれてしまったとのことでしたが、その場所へと向かいました。
老人福祉センターの裏側へと回り込むと、広い畑と砂防ダムがあり、山の稜線からもかなり怪しさの漂う場所がありました。
この場所で撮影したパノラマ写真です。
確信を持てずに写真を撮影していると偶然散歩中の女性が通りがかり、ここでも聞き取りをさせていただきました。その内容がこちらです。
  • お伺いした方は80代、この町で生まれ育った方
  • 射撃場があったことをご存じ、この場所から砂防ダムがあるところの先まで広場が広がっていた
  • 子供の頃(おそらく10歳頃)に多くの軍人が集まり射撃練習を行っていたのを見たことがある
  • 造成されるまでは平場が残っていた
実際に使用されていたという貴重なお話を伺い、特定することができ遺構は残っていませんでしたが大満足の探索となりました。
最後にこの場所の今昔マップです。
旧版の地図では丸く囲った付近が平場であることを示しており、昭和14年の時点で射撃場があったのではないかと疑わせます。
また道路から等高線の境までは約200mであり、すぐ近くには学校を示す「文」の文字も見受けられることから青年学校の利用という文章との結びつきをより強く匂わせます。
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今回も遺構は残っておらず聞き取りメインでの構成となりましたが、お伺いした方々が親切に教えていただいたおかげで解明することができ、満足感のある探索となりました。
同時に、このような調査をしなければ日の目を見る機会のない地域の記憶というものを、このような媒体であれ伝承していくことの一助となればうれしく思いました。
残る公文書と資料館への聞き取りも行い、新発見がありましたら追記していきます。
ご協力いただいた皆様方、本当にありがとうございました。
今回はここまでです、お読みいただきありがとうございました。
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飯能市大河原の射撃場についてはこちらから

https://ameblo.jp/ibukoma2000/entry-12544104231.html

飯能市西吾野の射撃場についてはこちらから