ハッとした。鮮やかな赤の粒々が目に飛び込んでくる、水引の花だ。我が家の庭にあるときは雑草として目もくれない自分の不明を恥じるが、それにしてもどうして花入に活けられた瞬間輝き出すのだろう?不思議でならない。
久しぶりの茶の湯数寄の会での出来事。月一遍集まり、茶道の造詣を深めるという勉強会である。
菊花模様の風炉先屏風に長板
私は茶の湯に触れるまでまことにガサツな人間で、身のこなしを調えたり、道具の扱いや部屋を綺麗に保つなどに全く無頓着な人間だった。
茶道は人としてスタイリッシュな身のこなし、更には意識の持ちよう、生き方のモデルを教えてくれた。(だからといって私がスタイリッシュに変身したわけではない。まだ駈け出しだ)
道具の持ち方一つとしても、古来の知恵がこもっている。
たとえば客へ見せた道具を下げる際、茶杓・棗・茶碗を両方の手で一挙に運べて、かつ美しいという持ち方をする。これは日々すぐに役に立つ。食器を下げるとき、箸を握りこみ茶碗と皿を一度に運ぶという何でもない日常動作が、美しく行えるのだ。
日本は技術の体系を「道」へと昇華する。といわれる。私が思うに道とは生きる道ということだろうから、技術の習得を生きる道への道しるべとしようという流れに違いない。そう考えれば、各種の「道」がいくつもの型で構成されることがうなずける。たとえば暑い夏をどのように涼やかにやり過ごすか、その知恵が型として学べるようになっているのが茶の湯だ。
簾戸も良いが、御簾ならば風に揺れる様が涼しさをいや増す。
亭主の客への心配りが随所に感じられる。
釣り舟に花が活けていないな、と感じた方は鋭い。そう、うかがった時点では床に花はなかった。今回は参加者全員で花を生ける「花寄せ」なのだ。
たまたま正客となった私が一番に生けることとなる。しかし…花など生けたことがない。
しかも花入れは一番格の高い、真の唐物だ。
一人ずつ床の前へ進み、いけていく
いくつもの花入れが並ぶと、まことに美しい。この美しさは真行草の三態がバランス良くそろっていることもきっと関係している。(真行草についてはまた改めて文章にしたい)
ところで、私の挿したのは?
秋明菊を一輪、シンプルに飾らせてもらいました。
人が手を加えて飾ると、何でもない花が輝き出す。でも作為が過ぎるといやらしい。「茶花は野にあるように」これは花生けに限らず、人生の極意に違いない。