猛烈に生け花をしたくなった。

  まこと、私は単純だ。花戦(はないくさ)という映画を見たのである。
 
「花戦」ウェブサイトより。http://www.hanaikusa.jp

 

 野村萬斎演ずる池坊専好が、千利休(佐藤浩市)の切腹を機に、花の道をもって太閤と対峙するという物語だ。萬斎さん独特の剽げた感じが存分に活かされ、すがすがしく時を忘れる作品である。

 ここで大きな焦点となるのはやはり、「利休はなぜ死を賜ったか」であろう。

 利休の死については古来様々に論議され、現代でも幾多の作品が生まれるほどである。
 はっきり言って、人の心の移ろいや照り映え、そして浮き沈みは本人でも説明しがたいくらいだから、正しい答えなどないに等しい。ましてや天下人と茶道第一人者の葛藤だ、幾重にも過去の経緯や本人同士しか知り得ない状況が絡み合い、他人の推測の及ばぬ深い淵を作り出しているだろう。
 しかし、「利休はなぜ死を選んだか」は解明の余地があるように思う。

 利休は死をもって、「名」と「流」をあがなったのではないか。

 秀吉と利休、二人の対立の原因は様々に言われているが、私が思うにその最大たるものは芸術に対する世界観対立だったろう。仮に利休が死を避けるため画策をしたとしよう。その画策は秀吉に対し「自分の世界観は誤っておりました」を証明することに他ならない。

 具体的にはどうするだろう?
 黒楽茶碗を割る、金の茶室を賛美する、わびさびの否定…いずれにしても利休が生き延びるためには自分の信念を曲げねばなるまい。そうなったらばあくまでもifの世界だが、表千家・裏千家は存在しなかったかもしれない。当然のことながら、その後の茶道のシーンも大きく変わっただろう。

 そう考えれば、利休が死んだことで何を守ったかが見えてくる。
 
 自らの矜持
 美への価値観
 思いを継ぐ弟子たち
 
 映画では池坊専好が、花を生けることによって秀吉の心をほぐすことを描いている。芸道をもって秀吉に勝利するということだ。
 利休は死をもって、秀吉に勝利したのだ。

 私は自分の思いに殉ずることができるだろうか?
 うーん、まだ死ねませんな。