保育士を10年やってきて大切にしてる事がある。
《子どもを叱る時は短的に。
ダラダラ怒らない。
怒った後も引きづらないし、過去の出来事を引っ張り出して叱るなんて言語道断!》
これは私の中の“座右の銘”にもなるくらい大切にしている事だ。
何故ならば、母がこれの真逆をいく人だったからだ。
それは、もう、壮絶なねちっこさを備えていた母。
私が成長するにつれ、少しずつヒステリックな怒り方は減ってきたものの、今度は陰湿なイジメのような叱り方になっていった。
気に食わないことがあるとひたすら私に聞こえる程度の声量で私の至らない点を延々とつぶやくのだ。
「あー、本当に最低。嫌なやつ。だいたいこの前もーあーだこーだ」「こっちはこんなに◯◯してあげてるのに、あーだこーだ・・・♾」
これをひたすら過去のことを掘り返しつつ30分~1時間お経のように唱えているのだ。
私以外の家族にも共通して行われ、母がボソボソ言い始めるとそれぞれが「誰に対して怒ってるんだ?」と聞き耳をたて、自分じゃないとホッとしている、というよく分からない習慣が出来上がっていたように思う。
少なくとも私は毎回、そうやって母のケンカ相手を察知するようにしていた。
ちなみにこの小言(悪口?)はケンカの後始まる場合と、なにも起きてなくても急に始まる場合がある。
後者になると大変で、その小言に聞き耳をたて、自分が何をして何が気に食わなかったのか探らないとならない。自分の悪口を聞き心を削られる作業が追加され辛かったのを覚えている。
更には、この小言も仲直りするまで永遠と続く。場所を変え、日をかえ、ひたすら悪口を言われる。
それは、同じ空間にいると始まるから余計に陰湿だった。
つまり、わざと聞かせるように目と鼻の先の距離で悪口を言うのだ。
だからケンカ相手がいない時は何も言わないのに、ひとたびケンカ相手が同じ空間に現れると悪口が始まる。
当事者でなければ中々面白い光景だが、年月が経つにつれその陰湿さに嫌悪感でいっぱいになっていったのを覚えている。
それに加えて、母は無視をするのが得意技だった。目を合わせず会話もしない。それが1週間は当たり前に続く。
小学生の子どもにとって大人の無視は堪えるものがある。尚且つ、それが母親だと尚更辛かった。
母の中で話し合って解決、という言葉は無い。子どもの気持ちを聞く、ということもありえない。
何故なら、母=正しい という考え方だから。
たとえ、ケンカの内容が理不尽であっても母の中では悪いのは相手であり、謝ることは絶対しない。
そんなケンカを繰り返すうちにすっかり私は頑固になり母の無視をほっとくようになった。
長くて3ヶ月。無視をし合ったこともある。
当時の私は高校生、母の無視にうんざりしていた。もう一生仲直りしなくてもいいとさえ思っていた。
内容は覚えていないが、私の中の正義が今回は絶対自分から歩み寄らない、と固く決意していた。
結果、私の粘り勝ちだった。
母は謝ってくるのを諦めた。その時からそのねちっこい叱り方が減ったように思う。
“この手はもう効かない”と思ったのかもしれない。
私は母のようにはなりたくは無い。
なので、私が間違えてしまった時は子ども相手でも素直に謝る。どうしてそうなったのかしっかり考える。公平に解決できるようにする。
正直ケンカと言うのは、どちらか一方が100%悪い、ということはほとんど無い。
どちらにも少なからず非があり、それをしっかり踏まえた上で解決できるのが最高だ。
まぁ、難しいが・・・
私にとってその考えは保育士という仕事の中でもしっかり生かされてきた。
ある意味反面教師である。
そこだけは、、感謝してもいいのかも?しれない。
いや、やっぱり無理だな
母よ、あなたのネチネチは異常ですよ。
