紀元前1046年 安陽
Q.これは歴史小説ですか?
A.違うと思う。
はじめに答えておくが、この作品は歴史小説ではない。実在していた人物は登場するし、実際に起きた出来事を物語に絡めてはいるものの、その内容は突飛なものとなっている。
かなりでたらめでべらぼうな物語だ。
では、何故今回取り上げるのか。
「面白い」というのも理由のひとつだが、題材が大きい。
中国の歴史において、易姓革命(えきせいかくめい)というものはかなり意義のある概念であり、それを象徴とした出来事をこの作品は背景にしている。
それを、見ていこう。
封神演義とは
『封神演義』の歴史は古い。
少なくとも明朝の時代には成立したと言われており、その時から既に当時のおとぎ話や古書、古い文献などのエピソードをピックアップして作り上げた闇鍋のような状態であったという。
今からおよそ三千年前、現在の中国では王朝の交替があった。
それまで黄河流域を支配していた殷という国が反乱により滅ぼされ、新たに周という国が建てられた。
後世ではこれを殷周易姓革命と言うが、その史実を下地に、実在していた当時の武将や王たち、中国神話の神々、そして多くの仙人たちが登場するというスケールの大きすぎる物語がこれなのだ。
作者はよく分かっていない。
一般的には許 仲琳(きょ ちゅうりん)と言われているが、編纂者であろう名として載っているのみで確実とは言えていない。
そんな作品だが、今回私が読んだのは千九百八十八年に出版された安能務によって書かれた半分オリジナル作品のものになる。
そのオリジナリティゆえに原典との乖離や改変が見られ良い意味でも悪い意味でも話題になったものの、日本における封神演義のブームのきっかけにもなった作品でもあるので、今回はこちらを選ばせてもらった。買った時はそこまで知らなかった。書店でたまたま見つけたものだったんだ……。あと入手し易い
あらすじ
物語は中国神話に則った世界の誕生から語られる。
渾沌から宇宙が、宇宙から陰陽が、陰陽から清濁が、清濁から天地が、そして長い永い時を経て人間が生まれた。
それからも、神話に沿って中国の歴史が軽く語られる。
三皇五帝の果てに夏王朝が築かれ、暴君桀(けつ)王が倒され、代わりに殷王朝が誕生した。
湯(とう)王が築いてから三十代、六百余年。
三十一代目の王に紂王(ちゅうおう)が就任。
物語はまさにその紂王(幼名を季子)が世に生まれたその瞬間から始まる。
その産声は、世が天災地変……つまり大地震が発生しているその最中に上げられた。
泣き声が止むと地震も止まる。
そんな恐ろしいタイミングで産まれた王子だったが、十二歳の頃にはあらゆる武芸を磨き上げ、文武両道、頭脳明晰、これからの王としての資質を備えた、完璧な少年として育っていった。
それから時を経て紂王が王として即位して七年目。
王が世界を創造した女神、女媧への参拝をした時のこと。
紂王は神殿にて、あまりにも美しい女媧の神像を見つけ、「なぜ生身の人間よりも艶かしいのか」とその美しさに惚れてしまい、
このように美しい女媧が俺の女であればいいのに
という詩を壁に綴った。
そんな落書き詩を発見した女媧は
「慢心からこんな罰当たりな悪ふざけをしおって!断じて赦すことはできない。滅ぼしてくれる」
と、激怒。
女媧はすぐさま妖怪を集める。その中には千年生きる女狐も居た。狐は地上で生きているとある娘の魂を殺し、その身に宿ると妲己と成り、紂王の妃として召し抱えられ、その妖術をもって賢王を昏君(フンチュン。バカ皇帝という意味)へと変貌させ、暴政の限りを尽くすこととなってゆく。
一方、仙界でもひとつの問題があった。
仙界と一口で言っても、その世界は大きく二つのグループによって分けられている。
闡(せん)教と截(せつ)教の二大勢力だ。
闡教は人間が術を極めて仙人となったグループであり、截教は偶然をもって自然発生した仙人たちのグループだった。
純粋な仙人である闡教は、修行を経ずに仙人となった截教が面白くない。
仙界を新たに創り変えるためには邪魔な存在である。
また、仙人たちにはひとつの縛りがあった。
それは、千五百年に一度、殺劫という下界由来の殺人衝動、即ち殺し合いをしたくなる感情が限界を超え、そうしなければならなくなる、という宿命を背負っていた。
女媧は紂王を呪った。
紂王の世は、国が滅ぶことは天数(天の定めた運命)である。
仙人たちは内部争いに加え、殺戒を破らねばならない。
ここに、下界で起きている争いに仙人たちが介入する、かつてない規模の大動乱が勃発することとなった……。
そんな時、道士の一人のある男はこれらの壮大な儀式完遂のため、地上に降りることとなる。
降りた先の磻渓(ばんいん)で男は釣りをする。
そこを通りがかった一人の王が声をかけた。
釣れますか などと文王 そばに寄り
この時、この瞬間。
のちの周の王となる姫昌(文王)と、そんな"太公"が"望"んでいた賢人が出会った。
その賢人の名は太公望。またの名を姜子牙という。
感想
面白いけど……ハチャメチャすぎるだろ!
とにかく、全編にわたってブッ飛んでいる。
そこに史実はほとんど……と言うよりほんの一部を除いて全く反映されていない。
時代錯誤とも思えるほどの新旧入り乱れた仙人が現れるし、実在していた太公望がそんな仙人の一人だったり、妖術仙術が入り乱れて戦いそのものがかなりカオスであったりなど。
冒頭で「歴史小説ではない」とハッキリ言った理由がここにあるのだ。
とはいえ、このような摩訶不思議に溢れたストーリーこそがこの作品らしさでもあるだろう。
史実通りになぞれば堅苦しい作品が出来上がる。それは果たして大衆ウケするだろうか?
より多く、より強くウケるための答えが、これほどの誇張と怪奇性の高さであるとしたらそれもまた魅力として映るだろう。
また、個性溢れる……と言うか個性的すぎる登場人物が多数現れるのも大きな特徴だ。
・魂が無いがゆえに絶対に死なない哪吒(作中では"なたく"と呼ばれる)
・最期が壮絶な聞仲
・父とは真逆なまでに立派な殷郊、殷洪兄弟
・終始カッコいい黄飛虎
・いきなり地上に降りる元始天尊
・とにかくふざけた理由で仲間入りをするも意外と便利な能力を持つ土行孫
・全ての元凶の女媧様神様がロクでもないのはギリシア神話だけじゃなかった……
ちなみに私が一番気に入った人物は武吉(ぶきつ)だ。
特にこれと言った特徴の無い木こりという人間の身でありながら紆余曲折を経て姜子牙の弟子となり、驚異的な身体能力だけで戦場を駆ける。
また、姫昌が幽閉から逃れて西岐(城のある地名)に帰った時の話も面白い。
まともな食事を取っていなかった姫昌は朦朧としながら小さな宿に入る。その時の料理人小二(シャオア)とのやり取りがコントみたいで凄く面白い。奇天烈な戦いとは違う、ほのぼの回(?)だ。オチも良い。
しかし、この作品にも問題点はある。
それは、中盤を過ぎたあたりからワンパターンな描写が延々と続くことだ。
この作品の「三百六十五の魂を封じる」という設定の都合上仕方が無い部分なのだが、敵が現れる→味方が死ぬ→助っ人が現れる→助っ人がその敵を倒すというシーンがかなり長い間続く。それが人によってはかなりキツいかもしれない。実際私は中国文学に対する若干のトラウマを覚えた。
しかし、そんなシーンも「えっ!?ここでこの仲間フェードアウトするの?」という意外性をもってすれば楽しめるかもしれない。
しかし、そんな作品でも終わりは完璧だ。
操られていたとはいえ、これまで残虐と淫靡に溺れていた紂王の最期はバカな皇帝ではなく、武人としての紂王として描かれる点は素晴らしいに尽きる。
成立以来、中国の文化や信仰に大きな影響を与えたこの作品を是非とも一読してほしい。
なんだこれは!
と思うこと間違い無しである。
ただ、もう一つの注意点としては中国史あるあるとはいえ割と残酷な描写がある点だ。マイルドな文体とはいえ、感性豊かな人が読む際は気分が悪くなること必至なのでそこだけ気をつけてほしい。
余談:紂王は暴君だったか?
さて、ここからは作中ではとにかく貶されていた紂王だが、史実においてはどうだったか、易姓革命がどんなものだったかを説明して終わりとしよう。
紂王。
詳しくは知らずとも、非常に残虐な暴君というイメージは誰しもが持っていることだろう。
特に、中国の歴史書『史記』における評価は途轍も無く低い。
殷の王、帝辛(紂王の別名。と言うより本名)は眉目秀麗、頭も良く、悪知恵が得意で、臣下に諌言されても逆に言いくるめてしまう程弁舌に優れていた。
とにかく贅沢と放蕩が大好きで、常に酒を飲み淫らな音楽を好んだ。
豪華な宮殿を建て、その為に重税を課した。
宝物殿と穀倉を多く作った。
家臣の娘が美人だと聞けば無理矢理妃とし、その娘が言う事を聞かないのでその娘だけでなく、父も殺した。
ある時は象牙で箸を作った。
ある時は絶世の美女妲己に溺れ、彼女の言う事は何でも聞いた。
ある時は炮烙の刑というものを開発し、炎で焼け死ぬ人間を妲己と共に見ては喜び、楽しんだ。
ある時は自身を諌めた叔父の比干に逆上し、
「賢人の心の臓には七つの穴があると言う。それは本当か?」
と言って、胸を裂いて心臓を抉り出した。
極め付けが酒池肉林である。
酒で満たした池を作り、そこに裸の男女を浸かせ、肉を木から吊り下げ、好きなようにさせた。
これらの暴政を見て、文王はため息をついた。
そのせいで文王は捕らえられてしまうが、貢物を得たお陰で彼は解放され、西岐に送られた。
文王は反乱分子を集め、勢力を拡大させた。
文王は途中で亡くなるも、跡を継いだ武王は太公望の助力のもと、殷討伐の兵を挙げ、ここに周となる。
殷と周は牧野という地で衝突した。
敗北を悟った帝辛は煌びやかな宝玉を身につけ、自ら火に飛び込んだ。
……。
これが、『史記』の記述であり、絵に書いたような暴君でしか無い。
それは名前にも現れている。
紂王の紂とは、無道という意味であり、どう見ても悪い意味の名であろう。
あまりにも酷い人物像であるために、本当の事なのかとさえも思えてくる。
さて、ここで奇妙な別の記録があるのでそれも見ていこう。
『史記』に加え『竹書紀年』にはこのような記述がある。
中華最古の王朝殷のその更に昔の昔。
夏という国があった。
その最後の帝を桀といった。
帝桀は徳を修めず、武力を持って支配したので誰もが耐えられなかった。
ある時、有施族(ゆうしぞく)に末喜(ばっき)という美女が居ると聞いた帝桀はこれを滅ぼし、妃とした。
帝桀は末喜を喜ばせるために、酒の池に船を並べ、肉の山を並べて肉山脯林とした。
帝桀は湯王を捕らえたが後に解放した。
贅沢を極めたせいで国は傾き、人心は離れ、最後は湯王に攻められ、夏はここに滅んだ。
夏桀殷紂。之、暴君の代名詞也。
……。
なんだこれは。
あまりにも似すぎている二つの事例ではないか。
と言うより同じ記述である。
とは言ったものの、仕方ない部分もある。
中国の歴史において最古の王朝は殷である。
それより昔の夏王朝はまだ伝説の域であり、歴史書に記録をしたくとも時代が古すぎて何も残っておらず、仕方無しとして紂王のエピソードを流用する形として桀のエピソードを書いたのだろう。
美女に溺れ、酒の池と肉の山を作り、後の王となる人物を捕らえては釈放し、逆に攻められて新たに国を建て替えられる。
何故、こうも共通点があるのだろうか。
それは、ここまでする必要があったからだ。
当時から、中国では儒教の教えが重要だった。
その儒教の教えに、易姓革命という考え方があった。
天命を革(あらた)める。
これは、『王朝が変わるのは血筋の断絶ではなく、徳の断絶である』とする意味で、やや悪意のある解釈をするならば、王朝交代の正当化を主張するために時の権力者によって都合良く利用されてきた言葉であるのだ。
ここで、ピンと来た方も居るかもしれない。
王朝末期の王は、愚かでなければならない。
帝辛は、暴君に仕立て上げられてしまったのだ。
近年、帝辛の評価は変わってきている。
発掘調査による出土品の記述から、帝辛は「殺すより働かせた方がいい」とそれまで活発に行われていた人間の生贄の儀式を辞めている事が判明した。
この時代、殷は先代の時代から反乱が頻発していた。
そのため、軍事訓練と狩猟に重きを置いた路線を帝辛は引き継いだと言う。
では、何故殷は滅んだか。
帝辛は反乱に対応するために中央集権を図った。
その力が、帝の周りに集まる。
しかしそれは、周辺部族や諸勢力、周囲の都市国家の力を削ぐことに繋がってしまう。
別の見解によると、殷に離反し、周に就いた諸勢力の中には軍事訓練の地になっていた都市もあったという。
殷から、帝辛から離反する諸勢力が止まらなくなった。勝ち馬に乗りたかったんだろう
結局、殷は反乱を抑えられなくなった。
統制力を失ったところを周に突かれてしまった。
牧野での戦いに負けた殷は、帝辛はこの結果滅んでしまったのだ。
帝辛は決して怠惰な帝でも、暴君でもなかった。
それは出土された甲骨分や金文から判明している。
帝辛は生贄こそは取り止めたものの、従来の祭祀を重視する方針は変えなかった。
それが、人と時代によっては豪勢に見えたのかもしれない。
孔子の弟子の子貢(しこう)は『論語』においてこう語っている。
「殷の紂王は世間で言うほど悪くはなく、悪い部分があったがゆえに彼に悪評がついた」と。
帝辛が死んで三千年は経つ。
それでも未だに彼を暴君とする表現は多い。
だが、そろそろ彼を赦してもいいのではないだろうか。
歴史は変わる。
その評価や結果も突然変わる事もある。
今を生きる我々も、変わらなければいけないのかもしれない。
このあたりで今回の話を終えよう。
最後の最後で作品を否定しやがった……とは絶対に言ってはならない。作品と史実は別だぞ!
書き漏れてしまったのでこの辺で最後にこれを。
今回この作品を選んだ理由のひとつに、上述した易姓革命の重要性にあった。
私がやけにこれを推す理由だが、なにも易姓革命は中国に限った話ではない。
日本から見ても他人事ではないからだ。
要するに。
日本の歴史においても。
易姓革命があった痕跡が存在するのだ。
それはいつの話か。
殷周易姓革命からずっとずっと未来のことである。
私はこのブログの一番はじめの記事においてこう言った。
「時代が下る順番に本を読んでいこう」と。
このブログは紀元前二千六百年(叙事詩の成立年ではなく、作中の時代。ギルガメッシュ王が統治していた年である)の『ギルガメッシュ叙事詩』から始まり、現在紀元前千四十六年の『封神演義』に辿り着いた。
このブログは、本をひとつ紹介する度に、ひとつ更新する度に時代が進む。
いつの日か、日本で起きたこの事例が紹介出来る日が来る事を心待ちにしていてくれると私としては有り難くもあり、そして強い励みとなるだろう。