Post Homerica




遂にやって来ました『イーリアス』の続編。


長い永い刻の中で失われた、トロイア戦争について書かれた作品。

この作品が無ければ、今を生きる我々は"その後"の物語を知ることは決して無かっただろう。

だからこそ、この作品は超重要なのだ。


意外なことに、この作品の作者はホメロスではない。

人物はおろか、時代さえも全く違う、異質ともいえる存在。

彼の名はクイントススミルナのクイントス(コイントスとも表記される)だ。


この人物に関しては不明な点がかなり多い。

いつ、どの時代で活動していたのか、生没年がいつなのか。それらの情報が全くもって判明していないのだ。

だが、研究者と、この本の翻訳者によると、紀元三世紀から四世紀ごろの人物であるらしい。


前回の記事を読んでいただいた方は分かると思うが、ホメロスの活動時期は紀元前八世紀ごろであるとされている。

この時点でかなりの開きがある事が分かるだろう。

なので、そんなホメロスの『イーリアス』のすぐあとを書いたこの『トロイア戦記』が、果たして続編と呼べるものなのだろうか?という指摘も存在するといえば存在する。

とは言え、ヘクトールの葬儀から『オデュッセイア』までのストーリーが丸々抜け落ちている状態で、模倣と評されることもあるかもしれないが、個々の物語を一点に纏めあげた彼の功績は称えるべきではないだろうか。


この作品、作者について


少しだけ語ってしまったため、新たに紹介出来ることは少ないが、改めて解説しよう。


作者はトルコの都市スミルナ(現イズミル)出身の自称羊飼いのクイントス。

彼は自身について、原典においてこう語る。


「私はアルテミス神殿の近くで羊の番をしておりました」


一見すると、「ほほぉ。羊の世話をしつつ詩を書いていたのか!凄い人だなぁ」と思うかもしれないが、どうやらこれは一種の宣伝文句のようだ。

似たような設定を持つ詩人が他にも居るし


むしろ、研究者の間では『イーリアス』から『オデュッセイア』へ上手く繋ぐほどの文学的センスを持ち、叙事詩の書き方やルールを極め、そしてそれらを実行に移せる程の労力と時間を手にする事が出来ていた、即ち学者だったのではないか?とする説を挙げる者もある。


作品についてはこれまで何度も述べた通り、ホメロスが『イーリアス』で語らなかった部分がその内容となっている。

前回の終わりであったヘクトールの葬儀が少し語られ、それからは継続された戦争についての描写が続き、遂にはトロイアが炎上して滅び、ギリシアの戦士たちが海を渡って故郷へ帰ろうとするところで本作は終了する。

そして、物語はホメロスのもう一つの傑作『オデュッセイア』へと続くのである。


なお、この作品のタイトルは実は存在しない。


後の時代の人々はこれを『tà meth᾿ Hómēron(タ・メタ・トン・ホメーロン。ラテン語。ホメロスの続きという意味)』や、『Posthomerica(ポストホメリカ。ホメロス後)』などと呼んできた。邦訳された際にこのようなタイトルになったので、今回もそのように呼ばせてもらうこととしよう。


あらすじ


トロイアの勇将ヘクトールはアキレウスの前に倒れた。

トロイアは第一王子を失ったことで、徐々に厭戦ムードが漂ってゆく。

そんな中、トロイア陣営に新たな助っ人が現れる。

アマゾーン族の女王にして美麗なる戦士ペンテシレイア。

強力なその女傑は、ギリシア陣営に大打撃を与える。

しかし、それでも不死身のアキレウスだけは倒れない。

合戦の末にペンテシレイアを斃したアキレウス。

強い。彼は強すぎた。


エチオピアから夥しい数の軍団を率いた勇猛なるメムノーンもアキレウスと戦うが、それでも止める事は出来ない。


しかし、そんなアキレウスにも死が訪れる。

ギリシアに怒る太陽の神アポロンは遂に行動を移した。

不死身と呼ばれるアキレウスではあったが、そんな彼にも弱点は存在する。

彼は生まれたその時、冥府の川の水に浸かることで不死の力を得ていた。

しかしその時、母テテュスは彼のかかとを持った状態で水に浸けていたのだ。

アキレウスのかかとは不死の力を得ていない。


アポロンは一点に狙いを定め、そして矢を放つ。


感想


非常に面白い作品であるといえよう。

むしろそうとしか言えない。

物語のつくりも、『イーリアス』にかなり似ているからだ。


なので、『イーリアス』が読めた人ならば読み切れるであろうし、楽しむ事も出来るだろう。

だが、『イーリアス』を楽しむことが出来なかった人はこの作品も苦行に感じてしまうことだろう。


今回も人を選ぶことには変わりない。


言い換えてしまえば、『イーリアス』の時と全く同じ感想を抱いた、と思えばそれでいいかもしれない。

とは言ったものの、個人的には『イーリアス』以上に目まぐるしく変わる戦況や物語の展開には一定の評価を加えたい。

次々と現れる強敵、それらを蹴散らすアキレウス、そんなアキレウスの運命、大戦犯パリスの最期、アキレウスの嫡子の登場、トロイの木馬、その後に待ち受けるトロイアなど、見所は枚挙にいとまがないので、興味を抱いた方や『イーリアス』を無事読み終えた猛者は是非とも手に取ってほしい。


ちなみに、この作品もかなりの長さを誇る。

『イーリアス』の半分ほどはあるので、読む際はそれなりの覚悟も必要かもしれない。


続:『イーリアス』は史実か?


前回の記事では「『イーリアス』およびトロイア戦争は史実であったか?」ということを論じてみた。分かりにくい、難しいという感想が多かったのは内緒

なので、今回もその続きを少しだけ語りたいところではあるが、予想や考察という形ではあるが既に答えは出してしまった。

なので、新たに"トロイア戦争が史実であったかどうか"という事を断定する事は私には出来ない。


だが、人によってはこのように思うかもしれないのではないか。


「今回の話ではトロイの木馬が出てくるよね?」


「トロイの木馬は実在したの?」


非常に興味深い着眼点ではある。

今回の『トロイア戦記』を読まなくとも、トロイの木馬のエピソードだけでも知っているという人は多いと思う。


物語の終盤、トロイアの城壁への攻撃に攻めあぐむギリシアの智将たちは、ひとつのアイデアを思いつく。

巨大な木馬を建設し、その中に数名の戦士を忍び込ませるという方法だ。

それ以外のギリシア兵は撤退したように見せかけ、ギリシアは城壁を落とすことが出来ずに諦めて逃げた。残されたのは戦勝を祝う馬の置物。結果としてトロイアの勝利だ!

……と、思わせておいて木馬に忍び込んだ戦士たちはトロイアの街へ潜入した後に暴れる……というものである。


トロイア戦争が実際にあった可能性が高いと叫ばれている今、その戦いにおいて重要な役割を担ったこの道具も、実際に存在していたのではないだろうか?


という声は実際に数多い。

しかし、現実は非情であるとでも言うべきか、この道具が確かにあったと言う証拠は一切存在しない。

伝承の中のお話に留まっているのが現状だ。


一方で、こんな説もある。


トロイの木馬と言うと、映画や絵画、そして今日トルコに置かれているオブジェの影響のせいで滅茶苦茶巨大な物と思われがちではあるが、実際はそこまで大きいものではなく、一種の兵器、それも攻城兵器だったのでは?と。

仮に馬の置物改め攻城兵器が存在していたとしても、その後のトロイアが炎上、陥落しているので城共々滅失してしまったのではないか?

と言うのも予想されている。


事実が不明だからこそ、様々な説が立ち、想像が膨らみ、ロマンに溢れる。

これは、古代という時代だからこそ愉しめるものではないだろうか。


余談


またこのパターンかよ

というツッコミはさておき、これまでと、そして前回言い忘れていた小ネタがあったのでそれを披露しようと思う。


ここまで読んでみて疑問に思った事は無いだろうか。

今回私が読んだ『トロイア戦記』では、アキレウスに対して矢を放ったのはギリシアの太陽神アポロンである。

(別の伝承ではアポロンから矢を授かったパリスが矢を放つというエピソードも有る。それはそれで面白い?)


何故、ギリシアの神が同じギリシア人を殺めようとするのだろうか?


ヒントは今回の記事の作者の欄でかなりさりげなーく置いてみたつもりではあった。

現トルコに位置するスミルナ。その近くのアルテミス神殿。


実は、アポロンやアルテミスはギリシア由来ではなく、元々はトラキアの神だとされている。


日本の神仏習合然り、異文化が混ざりあった結果、アポロンもアルテミスもギリシアの神になった可能性が非常に高いのだ。

もしも、この兄妹神がギリシアと敵対する地域の神だとしたら、これまでの展開にも合点がいく。

また、アルテミスにはエフェソスのアルテミスという神格も存在する。造形がかなりヤバいので画像検索には注意が必要。余計なお世話だけど


アルテミスの起源としては、エフェソスでの信仰が先か、ギリシアが先かで議論があるが個人的にはギリシアに取り入れられた説を推したい。

そうなることで、これまでの物語の展開や、暗黒時代と呼ばれた期間の間にギリシア神話が成立したのではないか?という私の中の仮説も無理のないものとなりそうだからである。


また、この作品には後に繋がる別作品への重大な伏線が散りばめられている。


戦いが終わり、それぞれの土地へ帰るギリシア兵に待ち受ける


トロイア炎上の際に、神による不思議な力でその身が護られるアイネイアース


私は何度でも言う。

この作品は、叙事詩と叙事詩を繋ぐという役割を全うしたという意味では最高の作品であると。

作者がホメロスではないが故に公式ではないかもしれない。

だが、時代を越え、(恐らく)ホメロスを大変尊敬していた一人の詩人が、亡くなりかけた説話集を一つに纏めあげ、この世に遺してくれた。

そして、更なる時を越えて我々の手へと渡ってゆく奇跡。


これはもう、公式でいいのではないだろうか?


とにかく私としては、クイントスという一人の人物はもっと評価されてもいいと強く思う。


最後に


これにより、『イーリアス』から続くトロイア戦争は終わりを迎えた。

最後の最後で波乱を迎えたギリシアの強者たちではあったが、それぞれがそれぞれの故郷へと帰ることで個々の物語は終わる。


だが、全体的な物語はまだ終わらない。


これまでチョイ役程度ではあった、優秀な頭脳を持つ"策略家"オデュッセウス。

彼の物語が、直後として幕が開く。


と言う事で次回、ホメロス作『オデュッセイア』。

乞うご期待!!