文明はシュメールに始まる。
 人類最古の文明は、「肥沃な三日月地帯」、あるいは「メソポタミア」と呼ばれる地に誕生した。そこは世界地図で見ると、イラクのペルシャ湾岸から、ティグリス・ユーフラテス河を北西にさかのぼり、シリア、レバノン、パレスチナに湾曲する弓張月の形をしている。出身を知られていない謎の民族シュメール人は、この弓張月の下弦にあたるイラク南部に定住、紀元前四千年紀、地上に初めて都市国家群を建設した。
 人類の記憶が定かではない太古の昔から、実り豊かなこの二大河の渓谷に人の流れが注いでいた。起源が不明のシュメール人はどこかから、征服者、支配者としてそこにやって来た。恐らくシュメール人よりも以前から、牧草と水を求めて、西と南の砂漠から、天幕に住みヒツジを追う部族が、洪水のように侵入を繰り返していた。
 彼らはシュメール人に代わって、国家と王朝を建設した。
 前三千年紀後半からおよそ二千年の長きにわたってメソポタミアで興亡した諸民族の王朝は、一つの際立った特徴を共有していた。彼らが使っていた言語はすべて、三つの子音からなる三人称、単数、男性形の、動詞の過去形を、語根と呼ばれる基本形とする。動詞の人称変化は同一の形式をとり、人称代名詞、血縁を示す名詞、数詞、身体の部位を示す名称などが著しく類似している。
 すなわち、これらの民族は、アッカド・バビロニア語、アッシリア語、カルデア語、ヘブライ語、アラム(シリア)語、フェニキア語、アラビア語、エチオピア(アビシニア)語を話す、セム語族に所属していた。
 いまだ考古学によって実証されてはいないが、彼らの祖先、単一の種族としての原セム族は、先史時代のある時期、ある場所に居住しており、そこからセム語諸族が分かれていった、との推測が成り立つ。セム族の故郷がどこにあったのか、東アフリカ、小アジア、南メソポタミアなどの説がある。
 だが、アラビア半島のどこか、というのが一番もっともらしい。かつてのアラビアは緑豊かな楽園のような大地であったという。ヨーロッパを覆っていた氷河が北に退くと、アラビアは乾燥し、砂漠が広がった。砂漠が養える人口には限りがある。三方を海に囲まれた過剰人口は、はけ口を求めて北に移動せざるを得なかった。
 セム族は、凶暴な侵入者ではあったが、文明の破壊者ではなかった。最初のセム族の王朝を創設したのは、羊飼いの息子で、宮廷酌夫から身を起こしたアッカドのサルゴン王である。前十八世紀、バビロンのハンムラビ王は、世界最古の立法者の一人となった。「目には目を、歯には歯を」――返応報法、あるいは同害法といわれるハンムラビ法典は、復讐を正当化するのではなく、制限するための法だった。砂漠を突き抜け、三日月地帯を横断、約束の地カナン(パレスチナ)に定住した遊牧民の子孫ソロモンは、イスラエルの王国を極盛期に導いた。
 彼らは、セム族ではないシュメール人から、家を建てて定住すること、灌漑用水路を掘って農作物を栽培すること、とりわけ文字を書くことを学んだ。フェニキア人はアルファベットを考案して、文字の使用を簡素化した。イスラエル人はヘブライ語聖書を記し、恐らく世界初の一神教徒となった。ユダヤ教の一派として出発したキリスト教徒は、一神教を世界宗教の一つに高める土台を敷いた。
 これは、現代人がいまだ明確に認識してはいないことなのだが、肥沃な三日月地帯はセム族の文明の舞台であり、彼らが西洋文明の礎を築いたのだ。