キリスト教の興隆(2)
西欧はギリシャ文明の継承者である、と経歴を詐称することほど史実と正反対のことはない。現代のヨーロッパ人の祖先は、ムスリムより数百年も早く、文明に遭遇した。彼らは、天佑によって、この文明の偉大な継承者となる栄誉ある機会を与えられた。彼らは、初期キリスト教会が、ギリシャの世俗文明を破壊するのを阻止することができた。
しかし彼らは、破壊者、蛮族となるべくウィーンの森を突き抜けてきた。
蛮族の侵入によって、パクスロマーナ、ローマ法の支配は、次第に衰弱していった。逆に教会の勢力は強大化し続けた。ユダヤ教の一派として出発したキリスト教にも、世俗の権威に従ってはならない、とする教えがある。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録五章二九節、日本聖書協会新共同訳)。力を得ると教会も、法の支配に反抗し始めた。帝国も組織的な迫害に乗り出した。それでも、
「こうした迫害さえも、普遍的ともいうべき規模をもって断行されたわけではない。なぜならば、ローマ国家にはキリスト教徒を根絶せんとする不動の意志も、地方行政官を全面的に統制する権力もなければ、人的資源が帝国全体に均一に存在していたわけでもなかったからである」(ホプキンズ)。悲惨な殉教物語として語り継がれるような、過酷な迫害を実行する力は、ローマ国家にはもはやなかった。
そのころすでに、世界最強のローマ軍の主力は、蛮族ゲルマンの庸兵だった。そのような軍隊は、外敵の侵入を防ぐことはできない。後世の思想家をして、「スパルタやローマでさえも滅びた以上、いかなる国家が、永久に存続することを望みえようか」(ルソー)、と言わしめたその軍事国家も、黄昏どきを迎えていた。かくも強大な国家をも脅かす蛮族の侵入は、聖書にしるされている終末の前兆なのか。
そうであれば、皇帝といえども、神にすがるほかはない。そこでコンスタンティヌス大帝は三一二年、罪を悔い改めて改宗した。そして三九二年、テオドシウス大帝は、次のような勅令を発した(ギボン)。
▽余が慈悲および寛容による統治を受くる全国民は、かつてかの聖使徒ペテロがローマ人たちに説き示したる信仰に終始常に忠実でなければならぬ、これ余が志なり。
▽ひとしく崇高なる三位一体説の下で父と子と聖霊との絶対神格を信ずべきなり。余はこの教義を奉ずるものにのみ、カトリック・キリスト教徒なる称号を公認する。
教会は、古往今来いかなる宗教も達成したことがない、驚異的な勝利を収め、西洋世界の宗教地図を一変させた。「さらに、第二次世界大戦を描いた戦争映画もかくやと思われるほどの勝ち誇らんばかりの筆致で殉教者行伝が次々に書かれ、誰が真の英雄で、誰が真の敵かをあらゆる人々に教えるようになった」(ホプキンズ)。これを、神話の創造という。