舞台「GODSPELL」観覧記 | 気が向いた時に書く日記・かとう唯さん、応援します!

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ヒマなおっさんが適当なこと書きます

かとう唯ちゃん出演のミュージカル座公演「GODSPELL」が2019年11月27日~12月3日に六行会ホールにて行われました。Team Milkの全公演6回を観ての感想をちょっと書きます。

 

 

 

ミュージカル座の公式のあらすじ文でだいたいの筋を紹介すると、「哲学者や歴史学者たちが神の存在についてあれこれ論じているところにジーザス(キリスト)が現れ、聖書の言葉を説き始める。救い主の登場に喜んだ人々は、楽しく歌い踊りながらその教えを学んで行く。だがジーザスに最も近い存在の一番弟子ユダは、ジーザスの言動に段々と不信感を抱き始める…」。

 

この舞台、役名が付いているのが「ジーザス(イエス)」と「イスカリオテのユダ」だけ。唯ちゃんを含めた他のキャストはwoman1, 2....となっていて、劇中劇としての「たとえ話」などでいろんな役を演じています。この「他のキャストたち」演じる「哲学者や歴史学者たち」が議論している場面から舞台は始まり、洗礼を受け、ジーザスの教えを学んでいく流れ。セリフも個々の場面も福音書の記載からかなり多く採ってきています。

 

ジーザスが登場してすぐ、その他キャストの人々は最初のジーザスの教えを聞きながら、頬にシールを貼ります。これがジーザス教団への入会の印、メンバーの印みたいな感じ。入会後、彼らは話し、笑い、踊りながらいろんなことを学んでいくわけですが、実際にイエスが教えを説いてまわっていた時の雰囲気ってこんな感じに近かったのかもと感じました。イエスはその頃30歳くらいだったらしく、今回のジーザス役の橋本真一さんも30歳のようです(その頃の30歳と今の30歳は社会的位置づけが違うでしょうが)。聖書は当然厳粛な書き方(訳され方)をしているので厳粛なものだと普通感じ取ってしまいますが、よくよく読んでるとイエスの一行はあちこちで飲食に招かれたりしてて、けっこう楽しんでもいたんじゃないか?!と不謹慎なことも想像できる。単に厳粛に説いてまわってるだけでは、誰も話を聞いてくれないかもしれないし。

 

福音書の中でイエスはいろんな「たとえ話」を使って教えを説いていくわけですが、舞台上ではその部分を「その他キャストたち」が劇中劇で演じて、舞台は進んでいきます。ジーザス役橋本真一さんが出番後の挨拶で、この舞台は「愛」を説くものだと何度も言っていて、実際に「たとえ話」も福音書で文字で読むよりも演じているのを目で見ると説得力あるなと思ってみてました。

 

福音書のたとえ話の中でも特に有名で、個人的にも好きなものの1つに「放蕩息子のたとえ」があります。父親から財産の分け前をもらって贅沢三昧した後に身を持ち崩した弟が、悔い改めて父親のもとに戻ってくる、兄はそれを咎めるが、父親は大歓迎で喜ぶという話。昔からイマイチ釈然としないなと思っているんですが、今回の舞台で演じられた「放蕩息子のたとえ話」の場面はかなり説得力を感じました。

 

唯ちゃんがメインとなる場面では「金持ちとラザロ」の話。ここでの唯ちゃんの三重弁全開のセリフはこの舞台の個人的ハイライトの1つ。毎回楽しみにしてました。

 

すでに書いたように、この舞台で役名があるのはジーザスとユダだけ。そして主役はジーザスなのですが、しかしどうも舞台全体でキーとなっているのはユダのほうだと感じました。ユダに関しては気になる点がありすぎるのですが、とりわけ、ユダが最初は洗礼者ヨハネとして出てくる点。ユダ役の横尾瑠尉さんがユダと洗礼者ヨハネの1人2役をやっているというのではなく、この人物はユダであり洗礼者ヨハネでもある、そういう人物っぽい。もう1つは、他の人物は(ジーザスでさえも)、最初は現代の普通の人の服装で出てきて、ジーザス教団に入る時に羽織を羽織った状態になり、最後また現代の服装に戻る。しかしユダだけは最初から最後まで羽織のままでした。

 

これら気になる点をどう理解したら、個人的にスッキリするかなーと考えるんですが(あくまで「個人的に」でOK)、なかなか分からない笑

 

最初に現代の服装をした人々(哲学者や歴史学者たち)が議論しているところへ、ユダでもある洗礼者ヨハネが現れ人々に洗礼を授ける。この後、人々とジーザスは羽織を羽織った状態になって、ジーザスから頬にシールを貼ってもらう。「ジーザス教団」の誕生であり、現実世界から物語世界的なものへ入っていったということか。

教えを学んでいき舞台中盤を過ぎたあたり、今回の舞台でも一番盛り上がる曲「We Beseech Thee」をやった後、ユダが人々に鏡を見せて、頬のシールをはがすように促す。最初にシールをはがしたのはユダで、ジーザスにはがしてもらっている。その他の人々も、ある人は自主的に、ある人はジーザスに促されて、シールをはがしていく。それをジーザスも喜んでいるようだ。ここの場面でジーザス役の橋本真一さんが歌う「美しい街」が素晴らしい。

 

有名な「最後の晩餐」の場面。ここでユダの裏切りが予告される。例えば「マタイの福音書」では、ユダ「先生、まさか、わたしではないでしょう」 イエス「いや、あなただ」だが、この舞台では微妙に違ってて、ユダ「先生、俺ですか?」 ジーザス「君次第だ」。それに続いてジーザスは、「行って、なすべきことをしなさい」とユダに言っています。では、「なすべきこと」とは何なんだろうか?

 

最後の晩餐の後、ジーザスと人々の別れの場面が描かれて、かなり感動的。ここで歌われる「哀しみの深さゆえ」が、また最高にいいのです。ここからユダの裏切り、ジーザスの処刑の場面につながるが、その前にジーザスの祈りの場面がある(いわゆる「ゲッセマネの祈り」の場面に基づく)。この時ジーザスは「杯を飲まずに済むならそうしたい、しかしそれが神の御心なら受け入れる」的なことを言う。ここは福音書の記載通り。一方、ユダは裏切りにつながる前の場面で、そこから逃げたいが逃げられず、葛藤しながらも裏切りを自らの運命(?)として受け入れ、実行する。ジーザスが言う「杯を飲む」というのは殉教することなのだから、この2つの場面のジーザスの言動とユダの行動はパラレルになっているわけです。

 

ジーザスの処刑。舞台全体が赤い光に照らされて、かなり強烈な場面。ジーザスが亡くなった後、しかし人々は悲しみを乗り越えて笑顔で立ち上がり、歌う。ユダは自分の行動を後悔しているのだが、その人々の様子を見て驚き、自ら命を絶つ。

 

ここで気になるのが、人々が羽織を脱いで現代の服に戻ること(ジーザスも復活して現代の服に戻っているっぽい)、みんなが頬に貼っていたのと同じシールを持っていること。物語世界から現実世界へまた移動したということかもしれない。しかもただ単に戻っただけではない。ジーザスの「愛」の教えをしっかり体得したうえで戻っている。なんとなく「大宣教命令」「大使命」を思い起こさせる。そしてその「使命」とは、ジーザスが歌った「美しい街」の歌詞にある「つくろう美しい街 楽園でなく人の為の街を」であるはずだ。

 

最後の場面でもう1つ気になるのが、最後に歌われるのが「道 整えよ 主の前へ」なこと。これは洗礼者ヨハネを意味する歌。そして、その後ユダが自ら命を絶つ時に、首を切っている。ユダは首を吊って死んだことになっているが、ここでは首を切っている。これは洗礼者ヨハネが首をはねられて殺されたことに対応しているのかも?と深読みしてました。舞台序盤と同様にここにいるのはユダであり且つ洗礼者ヨハネでもある。つまり、ユダ=洗礼者ヨハネは人々をジーザスのもとに導き、人々をジーザスから自立するきっかけを与えて、「愛」を持って「人のための街を」作る行動を促す。常に「道を整え」ていく役割を担っていた。これこそがユダ=洗礼者ヨハネが「なすべきこと」だったのではないか?

 

この舞台でかなりインパクトのあるものとして、「ええじゃないか」があります。序盤にジーザス教団に入ったばかりの人々が、終盤に裏切りの場面でユダが、「ええじゃないか」と言っています。ジーザスや洗礼者ヨハネは福音書で「神の国は近づいた」と繰り返し言っているわけですが、昔なにかの本で、ユダヤ教で言う「神の国」とは日本人がイメージする天国のようなものではなく、神がこの地上に直接介入することで実現する「世直し」のようなものなのではないかということを読んだ覚えがあったので、「ええじゃないか」が出てきた時にはそれを思い出して驚いた。ユダが裏切りの場面で「ええじゃないか」と言うのも、その裏切りが人々をより良い世界(「人の為の街」)を作る=世直しへ繋げるものになるからだったのかもしれないと密かに思っています。

 

と、思いつくままにいろいろ書いてみましたが、やはりユダが相当にキーとなる人物だったなと。この舞台の筋は主に「マタイ」「ルカ」2つの福音書に基づいているとのことなのですが、このユダの役割を見てると「ユダの福音書」も背景にあったのかもしれないなと思い始めました。その内容は、ユダが実はイエスの弟子の中の最も信頼され、ユダも誰よりもイエスを理解しており、裏切りはイエスがユダへ指示したものであるというもの。「ユダの福音書」が背景にあるというのは全く根拠なく個人的な深読みなんですが、でもそう仮定すると、ジーザスが「君次第、なすべきことをしなさい」と言ったことや、処刑・裏切り直前のジーザスとユダの言動がパラレルになっていることも理解しやすくなるような気がしています。また、途中でユダが言う2つの意味深な台詞、(ジーザスに向かって)「あなたこそ幸いだ、迫害され虐げられるのだから!」みたいなやつと、ジーザスとユダが中心に歌う「心配しないで」の後にユダが言う「でも、誰かが犠牲にならないとね」も理解できるかなと。

 

いちおうこんな感じで個人的に整理して理解しておくことにします。また再演されたら見に行きたいな~。