橋下大阪市長は、わざわざ「古典が見たい」という意思表示をした上で、文楽公演「曽根崎心中」を見に行ったにもかかわらず、「台本が古すぎる。もっと新しいものにしろ」と感想を述べたのだという。ぼくには、この橋下発言がどういうことなのか、さっぱりわからない。なんばグランド花月にお笑いを見に行って、「ふざけすぎだ。もっとまじめなものにしろ」と言っているようなものだ。難癖としてはヤクザのインネンと同類だし、真剣に言ってるのなら、発言者は頭が悪い。
文楽は、台本を元に上演されるから、「古典を見る」ということは、「古典的台本である近松の詞章そのものには文句を言わない」(もちろん作品の好き嫌いは別であるが)ということが前提条件だ。それを書き換えたら、その瞬間にそれは古典でも何でもなくなる。橋下氏は、いったい何を見るつもりで行ったのだろうか?
おそらく橋下氏には、近松の詞章が理解できなかった。べつにそのことは問題視するにあたらない。近世文学研究者であったぼくでも、近松の詞章は、台本を読んでさえ、にわかには理解できない。問題は、橋下氏がその理解不能を近松の台本のせいにしていることだ。
なぜ、ぼくはまだ未熟で理解できませんでした、と言えないのか。
なぜ、ぼくに理解できないのだから台本が悪い、というような言い方をするのか。
そこに橋下氏の正体が現れていると思う。
文楽は、台本を元に上演されるから、「古典を見る」ということは、「古典的台本である近松の詞章そのものには文句を言わない」(もちろん作品の好き嫌いは別であるが)ということが前提条件だ。それを書き換えたら、その瞬間にそれは古典でも何でもなくなる。橋下氏は、いったい何を見るつもりで行ったのだろうか?
おそらく橋下氏には、近松の詞章が理解できなかった。べつにそのことは問題視するにあたらない。近世文学研究者であったぼくでも、近松の詞章は、台本を読んでさえ、にわかには理解できない。問題は、橋下氏がその理解不能を近松の台本のせいにしていることだ。
なぜ、ぼくはまだ未熟で理解できませんでした、と言えないのか。
なぜ、ぼくに理解できないのだから台本が悪い、というような言い方をするのか。
そこに橋下氏の正体が現れていると思う。