橋下大阪市長は、わざわざ「古典が見たい」という意思表示をした上で、文楽公演「曽根崎心中」を見に行ったにもかかわらず、「台本が古すぎる。もっと新しいものにしろ」と感想を述べたのだという。ぼくには、この橋下発言がどういうことなのか、さっぱりわからない。なんばグランド花月にお笑いを見に行って、「ふざけすぎだ。もっとまじめなものにしろ」と言っているようなものだ。難癖としてはヤクザのインネンと同類だし、真剣に言ってるのなら、発言者は頭が悪い。
文楽は、台本を元に上演されるから、「古典を見る」ということは、「古典的台本である近松の詞章そのものには文句を言わない」(もちろん作品の好き嫌いは別であるが)ということが前提条件だ。それを書き換えたら、その瞬間にそれは古典でも何でもなくなる。橋下氏は、いったい何を見るつもりで行ったのだろうか?
おそらく橋下氏には、近松の詞章が理解できなかった。べつにそのことは問題視するにあたらない。近世文学研究者であったぼくでも、近松の詞章は、台本を読んでさえ、にわかには理解できない。問題は、橋下氏がその理解不能を近松の台本のせいにしていることだ。
なぜ、ぼくはまだ未熟で理解できませんでした、と言えないのか。
なぜ、ぼくに理解できないのだから台本が悪い、というような言い方をするのか。
そこに橋下氏の正体が現れていると思う。
今日という日の持つ意味を噛みしめない人は、心ある人にはいるまい。
だが、まさに今じぶんこそ、被災者・被災地では一番支援を必要としているはずだ。
そのことを、阪神大震災のときに被災者側として感じた。
ぼくとしてはやや大きいと思える額の義援金を送ろうと思う。
それぐらいしかできないのがもどかしいけれど。
どうやら風邪をひいたらしい。
はなみず・せき・腰痛と症状がそろっているから、おそらくそうだと思う。「おそらく」というのは、悪寒や発熱が全くないからだが、もしそうなら、20年ぶりぐらいということになる。
二十歳ごろに一度インフルエンザになって以来、風邪をひいたことがなかった。

これまでは、風邪を引きそうな予感がすると、ネギと一味を大量に入れたうどんを食べ、厚着して、睡眠剤がわりに酒を飲んで就寝し、寝汗をかいて目覚めたところで肌着を換えてもう一度寝る、という手順で、ことごとく未然に防いできたのである。(オススメ)
だが、今回は、ふとんから背中が出ていたため汗をかくのに失敗するという凡ミスを犯した。あるいは、後厄が済んで、体質が変わったのかもしれない。
風邪とはどういう感覚か、すっかり忘れてしまっている。寝込むようなことではないが、腰痛が気持ち悪い。
国立大学入試が終わったので、例年どおりヒマになった。とはいっても、授業は毎日細々と続いていて、じつはまるまる休日という日が無い。これは例年にはなかった事態である。
ヨメちゃんは、現在娘を連れて双方の実家にでかけている。「孫かわいがりさせろ」という祖父母(ぼくらにとっては父母)の要望にこたえて、それぞれ一週間ぐらいずつ泊まってくるのである。
ヨメも娘もいない家は、気楽だが寂しい。このまま死んでも、しばらくは誰も見つけないだろう。ひっそりと死にたいと常々願っているから、それもいいのだが、やはり最後に娘をもう一度膝の上に座らせてからでなくては死ねないという気の方が強い。

  人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな

この歌のココロがしみじみ理解できるようになってきたと感じる今日この頃。
14日のセンター試験を前に、授業が今日で一段落した。明日と明後日はコマ数が少ない。
試験直前になると、生徒は国語なんかあんまりやらないのである。付け焼き刃が一番利きにくい教科だからそれももっともなことだ。
ぼくの生徒たちが遺憾なく実力を発揮できますように。
だんしがしんだ。
ここ数週でどれほどこの回文がウェブに書かれたのだろうか。
個人的に談志を面白いと思ったことは一度もないが、落語界の功労者であったことは間違いない。
ご冥福をお祈りする。

大阪の橋下市長は、文楽を見に行って「二度と行かない」と思ったことから、文楽協会への助成を見直す方針らしい。
どうやら橋下氏は「自分にわからないものには存在価値がない」とお考えのようであるが、この傲慢な態度は、おそらく、「今まで何でもわかってきた」という根拠のない自信から帰納されたものである。だが、公立高校の芸術鑑賞の時間には意味がないからUSJに行かせようと考えた橋下氏が、自身の思い込みに反して、文化と教育の二つを致命的にわかっていないことは間違いない。古典的なものに対しては、憎悪すら感じられるぐらいである。
自分にわからないことがあれば、「自分にはまだまだ至らないところがある」と考えるのがまずはふつうの態度だと思うのだが、そうでない人が世の中に増えている。橋下氏もそういうご同類を支持基盤にしているのかもしれない。だが、この考え方で行政すべてを貫徹するのだとしたらぞっとする。橋下氏に気に入られなければ一巻の終わりということだからだ。
客を呼べない事業に公金を注入することを問題視した発言にすぎないのかも知れないが、だとすれば、「文化事業は金儲けであり、行政はそれによってもうけなければならない」、と考えていることになる。アホか金の亡者の発想だ。どこに文化事業でもうける自治体が存在するというのか。
たしかに文楽は今後二度と幅広く世に受け入れられることになるとは思えない芸能である。江戸時代前期には近松門左衛門のような不世出の天才が現れて庶民の人気を集めていたが、次第に歌舞伎に押されるようになり、すでに江戸時代後期には大阪で余喘を保つのみという状態であった。我が師・日野龍夫先生も、理解者に恵まれなければいずれ滅亡することが確実な芸能であるとお考えであった。
文楽についてどう思うかは個人の自由だ。近世文学研究者であったぼくでさえ、文楽を見るとかなりの確率で寝る。だが、ぼくは「自分にはよくわからないが、こういうのが好きな人もいるのだろうな」という(あたりまえの)感覚は持っている。ぼくには俳諧の面白さもほんとうのところはよくわからない。だがそれを理由に俳諧には存在意義がないなどと考えたりはしない。橋下氏は、「古典」にたいして「今の時代に合わせて生き残る工夫をしなくては」と言った。寝言である。
「財政が厳しいから文楽協会に金を分配するのはどうしても後回しになる。」正直にこう言えば十分理解はできるのに、それができないところに橋下氏の人間的限界があるように思われる。
こういう考えの人が首長に就いた大阪では、文化は、古典的なものに限らず、衰退の方向に向かうであろう。それで金を儲けたい首長の意に反して。それも大阪市民の選択である。やむをえまい。
今月まだ記事を書いてなかった。

三浦カズ「やめないよ」(新潮新書)を読む。
以前、朝日新聞に連載されていたカズのコラムを読んで、その見識の深さに胸を打たれた記憶がある。この本でもそれは同様であった。
サッカーに詳しいわけではないのだが、近年日本から優れたサッカー選手が立て続けに出ているのは、カズのおかげだと、ぼくは本気で思っている。それは、カズこそは人の師となるのにふさわしい資質を備えた人だからだ。

中田をはじめとして、海外で活躍したか、現在活躍している選手には、カズを尊敬している人が多いようだ。本田も日本でカズと食事をしたとかいうニュースを見たような気がする。
カズは、亀田興毅の試合を見て、「亀田選手の根性」に「素直に感動した」と書く。対戦相手へのリスペクトは必要だ、と、やんわりたしなめはするが、「あれだけのプレッシャーの中で最後まで戦い抜くんだという気力」に、「本当に勉強になった」というのだ。評判の悪い亀田の試合を見て不快感を示す人は多かったはずだが、20ほども年の離れた若者から「勉強」したスポーツ選手が他にいただろうか。
カズは、学べるものはなんでも学んでしまうし、いつでもサッカーが上手くなることを望み、上手くなると確信している。自らの向上心に身を焼かれることによって他の人にまで向上心を植え付ける人。それは、類い稀な「師」となるべき人だ。
カズを尊敬する若者は、その姿勢を学ぶであろう。彼らが世界の一流に伍するレベルにまで達しつつあるのもむべなるかな。カズから学ぶものがないと感じるようになったとき、日本のサッカー界はカズ以前のレベルに戻ってしまう。そんな気がする。
「ふしぎなふしぎな子どもの物語」(ひこ・田中著、光文社新書)を読む。
最近成熟を拒否している生徒が多いことを肌身で感じてはいたが、物語の世界にもそれは反映されているようだ。
去年、どうしても幼稚な内容の小論文しか書けないので、「自分が大人であるところをアピールせにゃいかんよ」と助言したら「大人にはなりたくないです」としくしく泣き出した女生徒がいたが、彼女は某旧帝大の法学部に進学した。大人になることを拒否した法曹が次々生まれつつあるのが日本の現状だと思うと、暗澹たる気分になる。


ある高校生がどうしても髪を染めたいという。

「髪を染めること自体が悪いわけじゃないけどね、校則で決まっているなら我慢せんといかんよ」
「でも、学校の先生は染めているのに、生徒が染めてはいけないって筋が通らないと思う」

この理屈は一見まっとうに思われるから、生徒のみならず保護者にもよく採用されているようだ。
だが、この種の校則の真の目的は、「大人になったら(=将来のある時点まで我慢すること)」を学ばせる点にある。まさに成熟装置だ。
ぼくなんかは、「ちっくしょー、卒業したらイヤっちゅうぐらいやってやる!」と思っていろんな事を我慢したものだが、今の生徒は我慢せずに食ってかかることがよくあるらしい。

「大人になるまで我慢せにゃいかんの。校則はそういう目的で作ってある」
「でも今染めたいの!」

こういうことを言う生徒は珍しくない。というか、かなり多い。
「今やりたいから今やる」というのは、「この品物が欲しいから、持ち合わせはないけどとりあえず持って行く」というのと行動原理が同じである。社会常識を備えた人なら、「今は我慢して、お金があるときにしよう」と考えるが、判断力のない人や精神的に幼稚な人は万引きをしてしまう。
つまり、この生徒の理屈は、極言すれば動物や犯罪者の理屈である。

日常生活に支障を来すような校則はさすがに問題があるが、髪は染めなくても問題なく生活が送れるだろう。黒髪に心惹かれる人だって世の中には多数存在する。だから、髪の毛を染めるのは禁止する、という校則は、なかなかうまく考えて作られていると言っていい。ほどほどに理不尽でありながら、我慢できないレベルのものではない。
たしかに、学校の先生は「卒業したらいっくらでも染めればいい。その考え方を身につけるのがこの校則の意味だ」ということを最後には教えてやるべきだと思うが、生徒の側にも「なぜこのような校則が存在するのか」ということをまずはよくよく考える義務があるだろう。
「一見してわからない→怒る→先生にくってかかる→先生はただ却下としか言わない」では、どこにも生徒が成熟する機縁が存在しない。

こういった風潮の根底には、消費単位が細分化され、子どもが一大マーケットとして開拓されたことと、ロリコンが増えて若さそのものを無闇にありがたがる傾向が増したこととが、おそらくある。
中学生が高校生を「おじさん・おばさん」と呼ぶようなことが当たり前に受け入れられ続ける世の中には、大人は生まれにくいだろう。
近年、社会の中心に(精神的な)大人が不足していることが指摘されているが、若い世代の成熟拒否ぶりを見ていると、この先も日本社会が明るくなるとはあまり思われないのである。

鉢呂氏辞任の理由のひとつとされる、「死の街」発言は、十分成立しうる比喩なのであって、正直なところどこが悪いのかぼくにはさっぱりわからない。同じことを、取材に出向いたプロの物書きが言ったなら、誰も気にかけなかったであろう。もちろん言葉は文脈に置いて実質的な意味を持つのだから、どういう人がどういう状況で発言したのかによって他人の受け止め方が異なることは言うまでもないが、こんなことで手腕を振るう前の大臣を追い詰めて混乱を生じさせるのは、日本の政治家(とくに野党)やマスコミのレベルというものがうかがい知れる、ひどい揚げ足取りだ。
もう一つの「放射能をつけた」という悪ふざけは、むしろ大臣のレベルというものがうかがい知れるものであるが、いずれも公的な場で発言されたものではない。ぼくは別に民主党の支持者でも何でもないが、こういうことで、鬼の首を取ったように相手を責めるのを、ガキというのだと思う。
日本人の重要な部分を受け持つべき人が、全体として、知的であることや大人であることを忌避しているかのように見える。内田樹氏は、これでも潰れない日本を「政治システムが成熟した証」としておられるが、やはり成熟した政治システムの上に成熟した政治家と成熟したマスコミが出現して国民のために働いてくれるのが一番望ましい。とくにマスコミの知的退潮ぶりは目を覆うばかりである。
一つ馬齢を累ねたので麻雀で運気を占う。
日付が変わったあたりからさっきまで計8局打って、2位1回、3位4回、4位3回。フラッグは32本減った計算。
6枚待ちの一向聴から13巡ムダヅモが続いて最後の1巡でやっと聴牌になったのがなかでも象徴的。
なかなか酷い運気のようだ。
文字だと穏やかだが、部屋の中を破壊し尽くしたい衝動で一杯。
生きてて楽しいことなんてないね。