日本民俗学の創始者である柳田國男(やなぎた くにお)。
彼の自伝『故郷七十年』には、少年時代のとても不思議なエピソードが書かれています。
【祠(ほこら)での神秘体験】
茨城県に住んでいた少年時代。
彼は、旧家の庭にあった古い「石の祠」をこっそり開け、中に入っていた美しい石(蝋石の珠)に触れてしまいました。
実は、この珠はただの石ではありませんでした。
その家の老婆が、脳卒中の後遺症から回復するようにと祈りを込めて撫でていたものであり、
のちに屋敷神として祀られた特別なものだったのです。
その珠に触れた瞬間、少年はとても恐ろしい、奇妙な興奮状態になります。
しゃがみこんで空を見上げると、晴れた青空なのに「数十の星がキラキラと光って見える」という幻覚にとらわれました。
意識の底に引き込まれそうになったその時、空高くで鵯(ひよどり)が「ピーッ」と鋭く鳴きました。
その声のおかげでハッと我に返り、彼は正気を取り戻したのです。
柳田自身、「あの時に鵯が鳴かなかったら、私は発狂していたかもしれない」と振り返っています。
脳と体で何が起きていたのか?
この有名なエピソードは、現代の「脳科学」や「医学」の目で見ると、とても理にかなった体の反応です。
少年の脳の中で何が起きていたのか。3つのステップで解説します。
1. 恐怖で「脳のアラーム」が鳴る(扁桃体の暴走)
「見てはいけないものを見てしまった!」という恐怖で、脳の「扁桃体(へんとうたい)」というセンサーが激しく反応しました。
危険を知らせるアラームが鳴り、体はパニック状態になります。
心臓がバクバクと脈打ち、呼吸が浅く速くなりました。
2. 青空に星が見える(脳の酸欠と血圧低下)
晴れた空にキラキラした星が見えたのは、「脳の酸欠」です。
極度の緊張や恐怖を感じると、急に血圧が下がり、脳への血流が減ることがあります。
視覚をつかさどる脳の後ろ側に酸素が足りなくなり、視界に光が見える錯覚(立ちくらみで星が飛ぶのと同じ現象)が起きました。
同時に、強すぎるストレスから心を守るため、脳が現実から逃げようとして、気を失う寸前になっていました。
3. 鳥の声で「我に返る」(脳の強制リセット)
気を失うギリギリの少年を救ったのは、空で鳴いたひよどりの「ピーッ」という鋭い声でした。
人間の脳の根元には、目を覚まさせるためのスイッチ「網様体賦活系(もうようたいふかつけい)」があります。
突然の鋭い音が耳から入ったことで、このスイッチが強く押されました。
「外からの強い刺激」が入ったことで、脳は「自分の中の恐怖」を強制終了し、現実の世界へと意識を一気に引き戻したのです。
神秘体験が民俗学の原点に
もし鳥が鳴かなければ、そのまま完全に気を失って倒れていたでしょう。
あるいは、強いトラウマとして心に深く刻まれていたかもしれません。
極限のパニックに陥った脳が、偶然の「鳥の声」によって正常に引き戻される。
これは体の仕組みの面白さが分かるエピソードです。
そして同時に、こうした自身の強烈な神秘体験があったからこそ、
「目に見えない不思議な世界や体験を大切にし、深く理解したい」という潜在意識が彼の中に芽生えました。
これが、後に彼が「日本民俗学」を切り拓くための大きな原動力になったと思われます。






