FBの投稿より

映画「ママをやめてもいいですか?」の無料配信期間が過ぎてしまったことを、
友達の投稿で気がついた時の投稿です。




(以下長文です)

ホロっと。
でも元氣が出る映画。
予告編を観て。


新生児から乳児になった可愛い赤ちゃんの育児真っ盛りのお友達の投稿をシェアーします!
以前、池川明先生もこの映画のことを取り上げていた記事がありましたね。
すごく、分かるなぁ〜と。一度はこんな気持ちになったことあると思います。と。

初めての出産、育児。不安だらけだし、寝不足、自分のことは何もできないし、疲れているし、気持ちもホルモンも不安定で、でも、一人で育児をしているママもいるだろう。上に小さな兄弟がいる場合は、上の子のことも気にかけなくてはいけないし、食事も洗濯も風呂も。
自分の気持ちを素直に吐き出せて、分かち合えて、寄り添ってもらえる人がいる、社会にしたいね。

だって、きっと、「ママをやめたい」と思うまでには「自分がもう限界だ」と感じることさえできていないかもしれないから。

せめて「愚痴を言ったり」「笑いあったり」「一緒に赤ちゃんを眺めたり」「赤ちゃんのことを考えないでポケッとしたり」「自分がしたいことをしたいときにしたり」「好きなときにお茶を飲んだりトイレに行ったり」「たわいもない話をしたり」

そんなことができるといいな、この社会。

保育園ママとは違う視点。ですね。保育園はそもそも、根本から考え方が違って「分離するために利用する場所」であること。少なくとも「分離」による「傷」も生まれるかもしれないけど殆どは「ホッと」できます。赤ちゃんと離れたら、自分の仕事や自分のやりたいことのために自分を動かせる自由の身になれる。
(でも特に0歳児保育、1〜2歳児までの長時間保育には親の都合的にはそのときは良いかもしれないけど、子どものそのときにしかしてあげられない大切な関わりが直接ママがパパができない可能性が増える危険があります。その時から、子どもの我慢と枯渇感、基本的信頼関係の非構築、愛着関係の非形成は始まってます。心の底の方に影や染みになるやつです。赤ちゃん子ども自身ではどうにもできないのに、大きくなって何か社会的な人間関係や自己実現の段になり、親がえぐった傷なのに子どもは(思春期や大人になってから)自分でその傷に散々痛めつけられた結果、自分で癒し方法を見つけ自分で直して立ち直らなければならないという...。
心の底の見えないところに傷があったことに気づけない人生もある。その場合は、人生での不具合が深刻化したり続いて自ら人生を終えるという選択をする人もいたり。
気づくまで壮絶な痛みの繰り返しや自分がわからない苦しみや自分を愛せない悲しみなどと自分の中で戦わせることになることもある。

出会った男女が愛し合って生まれた赤ちゃん。

生まれて一番、その後の人生の全般にわたって大きく影響を与える、0歳時期、1歳〜2歳児満了時期まで、基本的に一日の生活時間の大部分はできれば母性の愛でじっくり、自分自身もママとして母性と人間愛を育む時間が取れる、育児スタイルを基本にしてくれないかな?と思ってます。

それは保育の現場も見てきたし、保育園の運営会社を営む経営者自身を見てきたし、園長先生や、主任さん、一般保育士も、、、、その実態や心の本当の意図や華やかなビジネスの顔からは見えない個人的な抑圧など。を見てきた経験の影響もあるけれど、0歳児保育の集団保育は特に必要ないです。
0歳児保育園保育は無くなっていいと思います。
これは、同意見の保育園園長さんやベビーシッターさん、ベビーシッター会社社長さんなどもいますよ。(心ある保育魂が生きてる保育者さんの、思わずでた本心です)

ほんの、3年です。
特にせめて、0歳児期の1年は。
母性で子どもを育むことは必要ですよ。
どんなにウーマンリブの洗脳に侵された女性が多くとも、女性だから、母性は女性にしか育めない特徴、特質、生まれ持った才能ですし、宇宙の調和だから。
「母性神話」
「3歳児神話」を崩壊させたかった流れがあり、
その辺から、親子の心の絆は一方的に親から剥がされがちな世の中になり、
親は子どもに便利簡易な出来合いの食事やファーストフードや、病気は「体を丁寧に調和させてね、食べ物や睡眠や心の絆、笑顔が足りてないよ」と教えているのに、
病院へ行き、薬で目の前に出てる「SOS」を消そうと必死になり毒を入れ続けていることに気づかない。
それでも子どもは我慢を続けて、「不自然に、感情を抑えて我慢すること」を承諾し続けて、ママやパパからの強制的な不自然を受け入れ続ける。

仕事を休めないから。それが理由。
誰かが「お仕事があるでしょうけど、こんなときぐらいは、お子さんと一緒にいてあげませんか?」

体調不良で休んでも、お母さんが諦めてお子さんとの様子を見ようと決めると大概、すぐに熱は下がり元気になり飛び回って家で遊んでると。
「全然元気で」となることが多い。

子どもは、心の枯渇が満たされて元気になっちゃったんですね。素直ですよ。正直。
それぐらい、単純なくらい、わかりやすく「お母さんがそばにいること」が、薬にもなり栄養剤にもなる。

それが何を示しているのか
保育の根っこを感じる感性が生きている保育士さん、園長さんは分かるわけです。
それを何年も見てきているわけです。
そしてお母さんがたに、優しい笑顔で話しかけるわけです。
「子どもはお母さんが大好きなんですよ〜」と。

これからはより、家庭で育児をしているママにこそ優しい社会になってほしいなと思います。

嘘のパンデミックだけどその偽流行のおかげで、仕事の形が変化してきましたよね。

強制的に、家にいることが多くなり、自然と今までの暮らしを見直し、住んでいる家を変えたり、地域を変えたり、生活スタイルを簡素に変えたり、買い物を手作りに変えたり、生活を身の丈に合わせて「経済を小さく」した影響で、思わぬ「幸せ」に気づいた若い親御さんもいますよ。

「仕事行かなくてもなんとか生活できたら、子どもとの時間が増えて、笑顔が増えた。病気しなくなった。」など。
「夫婦の会話が増えて、お互いに優しくなった」とか「家で料理をすることが増えた」など。

戦いモードがオフになったんですね。
「経済を見直す」のは、「経済第一主義=物欲・名誉欲・承認欲求・競争・優生思想」で
「外側にいつも目を向けて、自分や家族の幸せや心の満足感を無視している働き方」をしていると、心がどんどん枯渇し、人間としての心と心の繋がりが薄くなって行き、自分の心も感じなければ、本当は心を通わさなければならない大切な人との心も感じなくなっていく。
戦いモードですね。
でも社会的に強制的にその足かせと鎖を外された象は、自由に何処へでも歩けるんですよね。
その自由に気づいて、自由がもたらすのが「不安や恐怖」だと一悶着ありそうだけど、「それ以上どうしようもない」と気づいたら「無い」状態から、どうにかしようと知恵を使い始めますよね?

そして、生きることを共同で楽しみ始めると、元気になるのは、子どもです。

お母さんが自分との時間を持ってくれること、赤ちゃんにとってこれほどの天の恵みはありません。
お母さんも自分の母性が芽を出して、母性ホルモンが増えてくると「満足感」「自己幸福感」が出てくるんですよ。それが自然だからです。女性が母性を育むのは、自然なことなのです。

だから、育児とは育自、親が自分を育てることなのです。

育児・育親・育自(自分の人生)です。
この素晴らしい「育む」ができるのは、親になることを選んで決めた自分なのです。
素晴らしいこと。
親になるということは、自分一人のことでは無いから負担もある、自分以外の子どもという存在の気持ちや体のことまで考えなくちゃならない、時間も質も人生やることが増えるわけです。当然、親の思い通りには行かないです。子どもは違う人間だから。でもそれも、学びながら、泣き笑いしながら、自分を育ててゆく「鏡」をたくさん用意してきた人生ということですね。

それ相応のママでなくちゃもらえないご褒美もあるし。
もちろんパパでなくちゃもらえないご褒美もあります。
母性も父性も、子どもには必須栄養素です。

なので、そうはいっても
初めてのお産・育児や、
若年でのお産・育児、
自分が愛されたことのない人のお産・育児、
望まないお産、
孤独な育児、
パートナーからハラスメントを受け続けてる育児...など、

妊娠、出産、育児には100人100通りの状況があります。

そういう時、保育園に預けちゃって楽になる、
それも選択肢だけど、親も愛を与えない他人から親に代わる愛をもらえない赤ちゃん時代になる可能性があるなら、

地域ママみたいな「お母さん的」存在さんがいつでも来てくれる社会になれればいいな。
保育園に預けられるとしても、家にいる間、ママの育児の溝を埋めてあげられて、少しでもママの「罪悪感」や「自己不足感」や「子どもを拒否する反応」の枯渇感を、現実的に埋めてあげて、少しでも心が和らぐよう、子どもに対して少しでも余裕が出て優しい気持ちが向けられるよう、その間を埋められる、そんな存在が地域に充足している、そんな社会になったらいいな。

地域社会で、赤ちゃん、子どもたちを、親と一緒に育てていく社会。
インディアンの文化のように「子どもは社会の宝」としてみんなで子守する。子育てする。

知識も経験もない新米ママは特に不安だもんね。
でも一人で悩まなくていいもんね。

核家族、でもいいじゃん。
核家族どうしが、コミュニティーをつくり、そこに「ユニティ」が生まれ、共同体として子育てやお仕事を生み出し、自分たちで作物をつくり(衣食住を自分たちで賄う)、働く姿が子どもの生活のすぐ横にあり、生活も一緒にやる、ほかの子どもや家族とも、お互いが共に幸せを分かち合うように生活をして、お互いがお互いを活かし合うように生活や、育児、食、健康、教育、仕事を生み出し、自然と一体となって命が循環している、愛が循環している、そんな社会を作れたら、

特段「福祉」という考え方、住み分け方は無くなる。

「福祉」って、優生思想ではないかな?と思う。まるで、例えば「肢体に不自由がある」「情緒が混乱しやすく感情が繊細」「親の養護に恵まれない子ども」などの子どもや大人を「普通」と区別されて「一斉にその枠の中で囲われて区別されるためのくくり」のように、現在まで定義つけられている感じが、社会で感じられてきた。

特に保育の現場でははっきりしていた。
が、だんだん「共育・共生」というように「一緒の空間で一緒に時間を過ごすことの、良い影響」を子どもたちの心の成長のために良いと言われ、取り入れられてきてはいる。

この現象は、私は、「福祉」の中にカテゴライズされている子どもたちが、現在の「行き過ぎた詰め込み、行き過ぎた背伸びした、行き過ぎた不自然な、行き過ぎた子どもを無視した成長の過程の不理解」で化学肥料で無理やり大きくさせている栄養価がなく病気に弱い農薬や除草剤たっぷりの土や肥料や空中散布で収穫された野菜(食べたら人間がアレルギーや病気になる)のように、「親の都合主義で」赤ちゃん時代から育てられてきてしまった「健常児」と言われている子どもたちを
「救う神様・大人たちに対する先生」のような役割をしているように見えてならないのです。

福祉を受けている子どもたちに、園の生活を合わせる場面があり、その時、子どもたちはやっと「一つ一つ、目を見て、できることを味わい楽しめる時間を保証されて、自由に自分の宇宙を試せる」味わいのある時間を用意してもらえるのだ。

子どもたちは、大人の指示通りに従うために一直線に先生の言うことを聞くために全身の素晴らしい能力を畳んで、意識をたったの1点に集めさせられなくて済むわけです。

感覚のアンテナを自由に広げ、やっと自分で考えて、自分で選んで、自分で決める自由の時間をもらえるのです。

「共に育つ」時間を作り出してくれたのは、先生ではないのです。
先生が「その子がどうすれば、体や心の調和を取りやすく生活を楽しめるか?」と一生懸命、その子のために考えたからです。
同時にお友達のほかのおおぜいの子どもにとっても、「無理強い」「強制」「自分で感じて考えて選択して動く主体性の芽を詰んできた罪」を知ることができたのです。

この場合、どっちの子どもたちもつまり、大人にとって「先生」であり「神様」であり「天使」だったのです。

こう言う場面に出会う時、本当に心では愛を感じさせてもらって大洪水です。
子どもたちへの素晴らしさへの感動と、
子どもたちに素直に素晴らしさを守ろうと考えた先生の純粋さへの感動と。

保育園ってそう言う素晴らしさもあります。

けれど、やはり、それは3歳以上の「お友達との関わりが大きく心や体、社会性などの成長に良いきっかけとなる、集団生活が発達過程として必要となる頃」以前の、0〜3歳未満の特に0歳児、1歳児。

は、基本的に親子の時間が良い時間になることが大事です。

社会的には地域ママ、子どもを結局集団で預けるのではなく、ベビーシッター的な感じの地域のママが寄り添い実家の母みたいに世話を焼いてくれる人の助けが、公費で簡単に受けられる社会にしたいですね。

話ができたり、ちょっと赤ちゃんを見ててくれて眠れたり、ご飯を作ってくれたり、掃除や洗濯をしてくれたり...ね。ファミサポさんや、ベビーシッターさんだね〜。

そのためには、ベビーシッターは、国家資格になるべきだし(必要だから)、保育の質の向上は「人間性と専門性」の両方からの確認とふるい分けと再教育が必要だと思います。

集団保育ありきではなく、個別保育をきちんとできる実力を持っていて、なおかつその力量で集団の保育になっても子ども一人一人にエネルギーが行き届く保育ができる保育者なら、保育園もまだ存続できるかな〜。

私はそれを『神性保育』と呼んでいます。
なぜなら、小さな子どもは神様の役割をしています。私たち大人も本来は神様の一部としての素質を持っています。昔は子どもだったし。だから、子どもの「神性」を理解している保育者であり、自分もまた創造主であることを理解している「霊性に目醒めている者」が分かって子どもの将来を決める今を健やかに過ごせる保育の専門技術を心得ていて、なおかつ保護者の子育てを支援するという使命をやれる人。そういう保育を「神性保育」と言ってます。

これから「会社という形が無くなり新しく変化する」時代にあり、
保育園の在り方や必要性、が変わるでしょう。

●共同の子育てをする生活コミュニティ(共同体=ユニティ)と
●ベビーシッターの育児支援、
●神性保育

これを社会で実現したい。
子どもたちを幸せにする社会にしたいのです。

映画「ママをやめてもいいですか?」のコピー。
『ぷんぷんでハラハラな(色々あるけど、だけど!)「超」ハッピーな子育て』な思い出になる子育てをしよう!
そう気づいたら「幸せ」に気づいている自分がいる育児。
をめちゃくちゃ、推進したいです。
この映画、もしかしたら、パパも見たらいいかもね!

あれ?

ところで....
この映画、観たいと思っていたけど3日までじゃん!
見逃した〜。