【からだに刻まれた深い感情についての考察〜コンステレーションと統合ワークの知見から】

私がやっているグループセラピーのコンステレーションの場でも、「家族内の居場所を除外された先祖や家族の場所に行きたい」という無意識が働いて、たとえば「死にたい」想いがあることを、実際に死者の代理人の横とかに本人を配置してみることで、本人(または代理人)がものすごい安らぎを得ることがある。


死にたいなんて思っちゃだめだよ


あなたはここにいるだけで価値がある



という言葉は、救いになることもあるかもしれないけど、ファミリーコンステレーション的には無意識下で「家族への忠誠」を持つのは自然なことで、その家族に、早逝した人や何らかの理由で存在を除外、否定された人などがいると、勇気ある下の世代の者が、その代わりを懸命にやろうとしたり、その存在のそばに行こう(希死念慮とか)とする動きにつながっていたりする。



そうした潜在意識の働きをコンステレーションの場で見える化すると、自身の中にあったその強い「想い」に気づくことで、まずものすごく安堵することがある。



たとえば、さっきの私のF B投稿(自分の中の「ここにいるだけじゃだめなんだ」という思い込みがつかめたらからだと心の力みが抜けた話)。

その、

「ここにいるだけじゃだめなんだ」

は、直接的には

両親の離婚を止められなかった、役に立たなかった、

という

傲慢で健気で一途なインナーチャイルド」の思い込みなんだけど。


それに対しては、

「そうじゃない、あなたのせいじゃないよ」

と巷では見聞きするし、自分でもそう言い聞かせてきたとしても、潜在意識ではやっぱりそう思ってしまっている幼い子どもがいまだに残っていたりする。




だから、そこにその想いがある、ということをまず受けいれる。認める。



「ああーーー、死にたかったんだな」

とか

「ああーーー、ここにいるだけじゃだめって思ってたんだな」


と、その感情の居場所を自分の中につくった途端、からだと心の力みが抜けていく。


その後どうなるかは、自分で試していくのがいいのかなと、思う。



そして、コンステレーションでは問題と思っていることに対して代理人を配置して見える化するのだけれど、

もう一つの私のお気に入りのアプローチである「反射の統合ワーク」はからだに触れられている安心感の中で、からだが緩み、そこに記憶されていた記憶や感情が浮上してくることがある。


強い感情、否定してきた感情をみとめる、受け入れる=不快な感覚と「ともにいる」というのは、

ある程度トレーニングしないとむずかしいのだけれど、統合ワークは触れられている温もり(肉体感覚)があるので、その感情に飲まれて同一化してしまう危険度が低いなと感じている。

うまくリードしてあげたら、「ともにいる」ことができ、そこで癒しが起きる可能性がある。

慣れている人なら統合ワークの中で提供できる「ネガティブ感情のリリース」をしなくてもこうしたことが起きると思う。(もちろん状況に応じて必要ならしたらよりいい。)



問題を抱えていると、セラピーやセッションをうけたらその問題が急に動き出して解消する、というのがゴールのようにイメージしやすいけれど、その場でそんな消滅することはなく(感じ方にもよるけれど)。


セラピーでは、その問題の核心にある「思い込み」や「感情」を見つけて、居場所を与える、ともにいる、ということができたらまず十分花丸。

や、見つけて目撃するだけで終わることも多々あるし、それで十分かもしれない。

あとは自分自身のありようやその気づきによって、どうその感情や問題だと思っていた事象が変わるかを観察していくことが大切で、日常のなかで続けていくことが、肝なのだと思う。

セラピストは解決をしてくれる人ではなく、本人が気づくのを手伝ったり、本人の持つ、(家族への忠誠心などを超えたさらに先の)自分を生きてみたい、というような思いに光を当てる手伝いをするだけ。

やるのはどこまでも本人なのだ。


※必ずしも、感情が出てくるのが◎なわけではない。からだはその時の自分の最適解をわかっていて、受け止められない記憶は巧みに思い出さないようにしていて、それは命を守る素晴らしい機能。
ただ、エゴが解放を邪魔をする時もある。その場合はエゴを超えてでもやっていきていのか、は本人次第。なのかな。考察中。

※あと、統合ワークはこんな深いところに突っ込まなくても身体と脳は発達していきます。発達のブロックになってるものがある、浮上してきた場合の話。