江戸の火葬は、
市街地が形成されると同時に各寺院の片隅で荼毘(だび)所・火屋(ひや)として臨時的に
始められたと思われる。 そして、各寺院の付属地が墓地として認められ、
檀家は、付属の火屋で火葬としその寺院墓地に埋葬を行うのが一般的となっていくが、
明暦の大火(1657)以降、江戸の街が拡大整備されていくなかで、
火葬場も郊外地へ移転して専用施設化していった。
それが江戸五三昧(さんまい)と称される小塚原・千駄木・桐ケ谷・渋谷・炮録新田の火葬場であり、
幕末には南千住南組(小塚原)・深川霊巌寺・代々木村狼谷・上落合村法界寺などがあげられよう。
例えば、千住の火葬場は、四代将軍徳川家綱が上野寛永寺へ墓参の際に火葬の臭気が東叡山におよんだのを咎めて下谷や浅草の寺院の火屋を移転せしめたものであるが、
寛文9年(1669)、小塚原(南千住南組)に一町四方(約1ha)の土地を画して除地(のけち)とし、
火葬寺20か寺が建てられ、幅2間の道路を東門から小塚原縄手まで78間、西門より下谷通新町まで130間が新設され、墓地と火屋の分離と火屋の集団施設化が進められた。
「小塚原火葬地 」
寛永年間(1624年‐1645年)、 浅草下谷周辺に19カ所の火葬寺があったが、
火葬の煙や臭いが将軍家菩提寺の寛永寺へ及ぶことを懸念し、
将軍の命により小塚原に移転させたことが始まりとされる。
その後、明治に入り、旧東京博善の日暮里火葬場と合併し、
町屋日暮里斎場(現在の町屋斎場)となった。
分間江戸大地図 分間江戸大絵図 / 道因 [原図] ; 須原屋茂兵衛 [編]
火葬寺
2023年 荒川区南千住 地図
1628年 絵図師 遠近道印 生れる。
1628年 西光寺 創建
1655年 浄閑寺 創建
1669年 火葬寺 小塚原に移転。
分間江戸大絵図 / 道因 [原図] ; 須原屋茂兵衛 [編]
遠近道印(おちこちどういん、寛永5年(1628年) - 没年不詳)は、
江戸時代前期の絵図師。
https://archive.wul.waseda.ac.jp/.../ru11.../ru11_00929.pdf
https://www.wul.waseda.ac.jp/.../ru11/ru11_00929/index.html
浄閑寺
明暦元年 1655年 創建
西光寺
真宗大谷派寺院の西光寺は、寛永5年(1628)江戸で創建、
明暦年間(1655-1657)に火災に遭い報恩寺境内へ移転、
文化8年(1811)台東区東上野6丁目へ移転。
明暦3年 1657年、1月18日から20日にかけて、
江戸市内の大半を灰燼にした明暦の大火
火葬寺
寛文9年 1669年に、小塚原に移転。
仕置場
荒川区南千住
三ノ輪
分間江戸大絵図 / 道因 [原図] ;
須原屋茂兵衛 [編] bunken edo ōezu
遠近 道印, 1628-? ochikochi, dōin
遠近道印
(おちこちどういん、寛永5年(1628年) - 没年不詳)は、
江戸時代前期の絵図師。
苗字は藤井。通称は六郎兵衛。号は半知、久音。諱は長方。
蹴鞠にも秀でていた。